ここは森の奥深く。
目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。
唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。
満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。
さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今夜は寝待ち月。
なかなか現れない月にお客様はハラハラなさっているのでは、と私も落ち着かない気持ちになります。
寝て待つなど到底できそうにもございません。
落ち着かない私を宥めるように月が微笑みだした頃、お客様は落ち着いた様子でゆったりとおいでになりました。
「こんばんは。よくいらっしゃいました」
蝋燭の灯に照らされたお客様の表情は穏やかですが、微かな笑みの中に少し悲しみや戸惑いも浮かび上がっているようです。
その微かな振動は私に伝わり、思わず窓から月を見つめ返しました。
「お花をある方に届けたくて」
柔らかく湿度を帯びた声はそっと私の耳を包みます。
「どうぞお掛けください。あなたとそのお方とのお話を聞かせていただきます」
私の目を見つめていた視線は、ご自分の膝の上にそっと置かれた手の甲へと落ちました。
「あの…。実は時間を遡りたいのですが」
「時間ですか。どのような時間を遡りましょうか」
「彼と私が出会って離れ離れになるまでの十五年間です」
お客様の身体は夜の深みに溶け出し、声は漂いながら私の耳に届きます。
「十五年間ですね。その時間はどのような時間だったのでしょうか」
「私たちは幼馴染でしたが、いつも一緒にいた訳ではありません。お互いのことは意識していましたが思春期特有の自意識からかなかなか話せず。
でもある日、彼から手紙が届いたんです。ただ日常を綴った他愛もない内容でしたが、手紙だと何でも伝えられる気がしました。それから手紙のやり取りが始まりました。近くに住んでいるのにおかしいですよね。
一度だけ二人で出かけたことはありましたが、十五年という時間を考えると実際に話をした時間はほんの僅かです。
でもいつもお互いの心の中には、お互いの存在がありました。
手紙の中の二人はとても饒舌でした。
私たちは恋人でもなく、友達でもなく、ただの幼馴染でもなく、もちろん家族でもない。二人の関係を表す言葉は今も見つかりませんが、他にはない特別な存在でした。
どこか目には見えないピンと張り詰めた糸のような、払っても払っても消すことのできない霧のような。
何か私たちの間にはそのようなものがあったように思います。
それが何だったのか今も分からないのです」
白く浮き上がる自分の手の甲に視線を落としながら、小さな沈黙を作り出されました。
「…出会ってから十五年後、私は生まれ育った環境を手放し、遠く離れた場所へと旅立つことにしました。
彼にももちろんそのことは伝えました。
遠くへ行こうと手紙は出せる、だから二人の関係は変わらないと彼は思っていたのだと思います。
ですが、私の心は今までの二人の関係を壊したくなりました。粉々に。
だから二人の間を繋ぐ手紙という手段を放り投げてしまいました。
なぜ私はそのような衝動に駆られたのでしょうか。もう思い出せないんです」
手のひらはいつの間にか膝の上で天を仰ぎ、視線は手の中にあった何かを思い出すように深く深く落ちて行きます。
「私たちの関係を手放してからニ年が経ったある日、彼が亡くなったことを耳にしました。
私に流れる全身の血液が泡立つような感覚に襲われました。
もしかしたら私が粉々にして放り投げたものは、いつかまた掻き集めて形作れると思っていたのかもしれません。
でももう、掻き集めることも形作ることもできません。消滅してしまいました」
手のひらと視線はいつの間にかバラバラになり彷徨っているようでした。
「私たちの関係が消滅してから十五年が経ちました。出会ってから十五年、消滅してから十五年。同じだけの時間が経ったのだとふと思い、ここへ来たのです。
今更ですが、私たちの間にあった何か分からないもの、私が放り投げてしまった理由、そんな今となっては思い出せないものを思い出したい。
そして、彼に最後の手紙を渡したい。花の手紙です。
こんな注文、受けていただけますか?」
膝の上の手はお互いを握りしめ、視線は真っ直ぐ私の方に戻っていました。
「もちろんです。お二人のためにお作りいたします。花の手紙を」
お客様をお見送りする頃、寝待ち月は森に沈み掛けていました。
私の出番は終わりです。あとはあなたにお任せしますと言わんばかりに。
新月に向かうので制作を少し急ぐことと致しましょう。
やはり寝待ち月は私の心を少し乱します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
微かな水滴が浮かび上がり、夜も終わりを告げそうな頃、空には朝に向かう月が微かに輝きます。
「こんばんは。お花を取りに伺いました」
お客様はやはり慌てる様子もなくゆったりといらっしゃいました。
「こちらになります」
お客様は黙ってそれを見つめます。
蝋燭の灯りに照らされた表情は、安堵したような、懐かしむような柔らかさを纏っています。
「ありがとうございます。久しぶりに彼とお喋りができそうです」
「どうぞお二人の時間をお楽しみください」
お客様はそっと花を抱えて、白み始めた森に吸い込まれるようにお帰りになられました。
辺りは動き始めた土と水滴が混じり合った柔らかい匂いに包まれています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
後日、お客様から手紙が届きました。
「先日はお花をありがとうございました。
あの後、一週間ほど花を眺めながら毎日彼とお喋りができました。
あまりに久しぶりで初めは戸惑いました。
照れ臭くもありました。
でもね、お喋りをしていくうちに気づいたことがあるんです。
当時の私には気づけなかったことを。
私、本当はもっと彼と会いたかった。
視線を合わせたかった。
もっと声も聞きたかった。
手に触れてみたかった。
心の奥底を見せたかった。
きっと。
でもあの頃は、本当の自分の欲求に従うのが怖かった。
本当の自分を見せるのが怖かった。
嫌われてしまうのが怖かった。
自分に自信がなかった。
だから深いところで繋がれなくても平気な振りをしていました。
でもその時は気付かなかった。
平気だと思っていました。
やっと分かりました。
彼がどれほど大切だったのか。
三十年経ってやっと分かりました。
あなたが大切だと言えない自分に苛立っていたのでしょう。
素直になれない自分。
本当の心の声に耳を澄ますことが出来ない自分。
物分かりのいい人という仮面を被って生きていたのでしょう。
そんな自分が嫌で何もかも放り投げた。
そして彼が亡くなり、私は彼との記憶を無理やり小箱に仕舞い込み鍵を掛けたのです。
私の爆発しそうな心を受け止める勇気がなかった。
でも長い時間を経て小箱の鍵が開きました。
どうしてかしら。
彼がもうそろそろ開けてもいいじゃないかと言ってくれたのでしょうか。
そして、遠いところに居る彼は今になって私に教えてくれました。
ありのままの心に従うことの大切さを。
あまりにも長い時間、私は私に嘘をつき続ける生き方をしているのでしょう。
今からでも私は自分に嘘をつくことなく生きていけるのでしょうか。
自信はありません。染み付いてしまって。
でも折角彼が教えてくれましたので、少しずつ自分を変えてみようと思います。
とても遅くなりましたが、彼にありがとうの手紙を書いてみようと思っています。
私たちはいつも背中合わせ。すぐ側にいたんですね。一番近くに」
窓からは柔らかく温かい風に乗って微かな雨の匂いが入ってきました。
その匂いは森の遥か向こう側にある温かい海を思い出させます。
今夜は何かを掴んでいないとこの手は雨に流されて暗闇に溶けてしまいそうです。心許ない左手には傘を携えて、寂しげな右手は優しい風と手を繋いで森を当てもなく歩きましょう。
木々の芽が膨らんでいく声と、森の遥か向こう側にある海の声に耳を澄ませながら。