ここは森の奥深く。
目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。
唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。
満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。
さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。
久しぶりに降った雪は全ての音を吸い込みます。そして遠くで輝く三日月の光も吸い込みます。
全てを吸い込んだ雪に耳を当てたらどんな声が聞こえてくるのか。
両手で雪をすくって耳を当ててみました。
ヒソヒソと交わされる会話はあまりにも赤裸々で、勝手に聞き耳を立てたことを申し訳なく思いました。
決まりが悪く佇んでいると、サクッサクッと音を引き連れお客様がいらっしゃいます。
「こんばんは。素敵な雪模様ですね」
お客様の息は口から飛び出した瞬間から氷の粒となりゆっくり四方八方へ泳ぎ出します。
「ある男の子にお花を届けたくて。お願いできますか?」
「はい、もちろんです。どうぞ中へ」
今夜はとても冷えるので蝋燭をたくさん灯しましょう。蝋燭で青い光が消えてオレンジの光が広がります。
オレンジの中でお客様の指にそっと寄り添う美しい緑を見つけました。
「素敵な指輪ですね」
「ありがとうございます。
これは私の婚約者からいただいたもので。モルダバイトという石だそうです。厳密には石ではなくガラスだと言っていましたが。
ガラスと言ってしまうとなんだか価値が半減してしまいそうで。詳しいことは私には分かりませんが、奇跡の暗号のようなものらしいです。
さっぱり分かりませんよね」
お客様は肩をすくめて恥ずかしそうに、でもとても嬉しそうに私に見せてくださいました。
「私はある植物園で働いております。小さな植物園ですが、温室ドームがとても素敵で、まるで違う星にやって来たような不思議な気持ちになります。
一年中温かく、小さな滝や池も作られ世界中の植物が集められ大切に育てられているのですが、その数は職員の私も把握するのが大変なくらい。
時々ふと思います。職員の知らないところで見たこともない植物がひっそりと棲みついているのでは?と。きっとそれは宇宙から落ちてきた種が育って慎ましく生きている。そんな風に思うと毎日見慣れた景色も少し緊張感をもってしまいます」
お客様は指に寄り添った緑を優しく撫でながらお話を続けます。
「その男の子がやってきたのは2年ほど前からでしょうか。毎週日曜日になるとお父さんと一緒に朝一番に温室にやって来て、必ずお昼過ぎまで熱心に植物を眺めるのです。
ある時は持ってきた図鑑を広げたり、またある時はスケッチブックに写生をしたり。
蘭が群生している場所では花の香りを嗅いでそれをメモしているのも見たことがあります。私なら甘いとか清々しいとか、そんな表現しかできそうもないですが、男の子はひとつの蘭の香りについて長々と感想を書いていました。
こんなにも植物のことが好きな子供なら、大きくなったらきっと植物学者にでもなれるのではといつも思っていました」
いつの間にかオレンジは部屋をドーム状に覆っています。
「いつもは親子をそっと眺めているだけでしたが、ある日男の子に声を掛けてみました。
どうして植物がすきなの?と。
気の利いた質問が出てこなくて自分でも情けなくなりましたが、男の子はしっかり答えてくれました。
植物はみんな違う色や形や性格をしているのに、とても仲良く一緒にいる。
意地悪はしない。
仲間を守るために戦うことはあっても意地悪はしない。
人間の僕も植物の仲間だと思う。
人間っていう種類の植物。
僕は仲間のことをよく調べて色んな気持ちを分かるようになりたい。
そんな風に答えてもらって驚きました。
そんな男の子でしたが、ある日を境に姿が見えなくなりました。その代わりに、男の子のお父さんが1人でやってきて熱心に植物の写真を撮っていらっしゃいました。
そんなことが一か月続き、流石に気になってお父さんに聞きました。男の子のことを。
すると、男の子はある病に罹り入院しているとのことでした。なかなか退院できず、毎週ここの植物の写真を撮って病室で見せてあげているそうです。
私には何もしてあげられないのですが、男の子が元気になってくれるような花を届けたくてこちらに伺ったのです」
「承知しました。それでは次の満月にお越しください。ご用意しておきます」
お客様はオレンジと緑を纏いながら月灯りを吸い込んだ雪の中をお帰りになりました。
どこからか甘くしっとりとした香りが鼻をかすめた気がします。
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雪は溶けてぐっしょり濡れた森は身震いをしているようです。
月も薄ら雲を被り、顔を出すのも億劫だと言っています。
お客様は鉢を抱えていらっしゃいました。
「こんばんは。花を受け取りにきました。
それからこれ。月下美人です。この間こちらに伺った時に、ここなら月もよく見えて月下美人がとても喜んでくれそうと思ったので。私が育てているうちの一鉢を連れてきました。まだ寒いので花は付いていませんが、夏の様子を伺い始めてから冬の訪れを感じる頃にかけて咲いてくれると思います」
そう言って窓辺に月下美人の鉢を置いてくださいました。
「こんな寒い時にごめんなさい。でもここなら絶対大丈夫と思ったもので」
「ありがとうございます。大切に育てます」
月下美人を受け取り、代わりに男の子への花をお渡ししました。
お客様は月下美人の代わりに男の子への花を抱えてお帰りになりました。
窓から月下美人がお客様の背中を見つめます。
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後日、お客様から手紙が届きました。
「この間はありがとうございました。
すぐに男の子の元へお花を届けました。彼はとても喜んでくれ、早く植物園に行きたいと話してくれました。
お父さんに聞けば来月には退院できるそうです。
本当に良かったです。
退院したら彼には温室にひっそり暮らしている宇宙からやってきた植物を見つけてほしいと思っています。
そして彼ならたった1人で生きているその植物の仲間を増やして寂しくないようにしてくれます。
彼にはその力があります。
私にはそんな力は無いかもしれないけれど、何かまた別の力が備わった人間という種類の植物だと自分で思っています。
みんなそれぞれに使命を持ってこの地球に生まれているのでしょう。彼のように使命を思い出せれば幸いですが、私みたいに思い出せない人間もいる。
でも落ち込んだりしません。
それを見つけ出して思い出す過程が冒険であり、生涯を掛ける価値のあるものだから。
毎日美しい命たちと向き合いながら焦らずゆっくり探すつもりです。
室長さんはもう見つけられている気がしますが、いかがかしら?」
窓辺の月下美人は今夜も私には背を向けて月を眺めながら黙っています。
声を掛けようかと思いますが、何と声を掛けて良いのか言葉が見つからず一緒に月を眺めることにします。
私はまだ道の途中で彷徨っています。月灯りが次の道を照らしてくれると良いのですが、いつまで経っても道は見えません。
いつか次に進むことがあるかもしれませんし、いつまでもここに留まるのかもしれません。
それは宇宙に委ねるとことといたします。
さて、今夜は満月が地球の裏側から熱帯に咲く花たちの香りを引き連れて通り過ぎます。
ベルベットのような香りは冷たい空気に晒され、甘い粉雪に変容して私の掌に落ちました。まるで宇宙から降ってきた種のようです。