うたかた意匠室の短編小箱

静かな森の奥深く 月灯りを頼りに迷い込んだ道先 そこにはあなた様に届けたい 心模様がありました

第十話 フィルム

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。


唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。


満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。


さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 

訪れる季節を当たり前のように受け入れる虫たちの声が果てしない空まで昇り切り、澄んだ真空が広がります。

いつの間にか私の周りは梟たちが囀る森になっていました。静けさが長いドレスの裾を引きずりながらゆったり歩いて私の前を通ります。


音もなくやって来た満月は、はち切れそうに膨らみ、黙ったままそのうち粉々に破裂するのではと心配になるほどです。

そんなはち切れそうな眩しい灯りに後ろから照らされたお客様の顔も体も、全てが吸い込まれた漆黒となり何も伺えません。

その姿を地面に映した影はお客様よりも早く私の元を訪れました。


「こんばんは。

あと少しだけ、ほんの少しだけ助けて欲しくて伺いました」


今にも影に飲み込まれそうな声が慌てて耳に届きます。


「もちろんお手伝いしますのでゆっくりお話をお聞かせください」


蝋燭の近くで漸くお客様のお顔が目に入りました。


「私の妻が数ヶ月前に亡くなりまして」


膝に置く手を強く握りながら話をされるお客様の

背中をさするように、蝋燭の小さな炎は揺らめきます。


「亡くなる数ヶ月前に病気だと分かったのですが、私には何も出来ることがなく、妻はあっという間に遠くへ行ってしまいました。


私たち夫婦へどこにでもあるようなごく普通の夫婦だったと思います。何が普通かと聞かれましても答えるのは難しいですが…。


お互い仕事がある時は朝におはようと言い、夕食は早く家に帰った方が作り、寝る前におやすみと言う。お互いの仕事が休みの日はお互いの好きなことを尊重して干渉はしません。でも時々お互いの嗜好が合う映画が公開になれば一緒に観に行きました。

映画を観終わった後は、ああでもないこうでもないと感想を交わし眠りにつきます。

妻は私の視点が面白い、自分には無い視点で眼から鱗が落ちるとよく言っていました。


私は逆に妻の感性が私には無いもので、妻の眼鏡を掛けて映画を観てみたいと思ったものです。思い出と言ってもそんな日常しかありません。


妻とはドラマチックな出会いをしたわけでもなく、感情を全面に出してぶつけ合った日々を送った訳でもなく、胃がキリキリしそうな腹の探り合いをした記憶もありません。

ただただ穏やかな日常が流れる、登場人物が二人だけの映画です。


妻が突然亡くなるということは、そんな二人の映画が大したラストシーンが用意されることもなくプツリと終わったようです。今はただ傷の付いたフィルムの黒い映像がジージーと流れている前で私は佇んでいるだけです」


相変わらず蝋燭の炎はエネルギーを使って、ドロドロと自分の身体を溶かしながら揺らめきます。


「そんなある日、私は夢を観ました。

私はある一匹の蜘蛛を見つけます。

どうもこうもその蜘蛛が気になり後を追いかけます。周りには何も無くて真っ白な空間に蜘蛛が歩いているだけ。


ただ、その蜘蛛はあちらこちらに動き回るので私はヘトヘトになって来ました。もうこれ以上は歩けないと思った瞬間、温かい風が吹き、今まで味わったことのないくらい心地よい感覚が私を包みました。ドラマチックでもスリリングでもない穏やかな心地よさです。


すると目の前に花が現れました。よく覚えていないのですが、思わず触れたくなるような、深呼吸をしたくなるような、そんな花だったと思います。

そしてその花に触れた瞬間、真っ白で何もなかった空間に道が現れ、土の匂いがして、たくさんの鳥や虫の声がしました。

こんな風にはっきり覚えいる夢は久しぶりかもしれません」


蝋燭の炎は最後のエネルギーを燃やして大きく瞬きを始めました。


「兎に角、どこまでも続くと思っていた日常が突然終わりを迎え、終わったところからどのようにまた始めればいいのか。

そんなヒントを探して日々ふらふらと歩いているのです。


一体、別れとは何のためにあるのでしょうか。

そんな疑問が頭を巡るのですが。さっぱり思いつきません。

その答えを探すために何故ここに来たのかもよくわかりませんが、あの夢の続きを見たくて花を頼りにしているのかもしれません」


お客様がお帰りになったのを確かめるかのように蝋燭の炎は尽き果てました。

入れ替わるように破裂し掛けている月の灯りが私の足元に差し込みます。

 


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少し萎んだ月は肩の力がやっと抜けて安堵しているようです。


相変わらずお客様は背の高い影と共にいらっしゃいました。


「こんばんは。お花を取りに来ました」


「ありがとうございます。こちらになります」

 

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お客様は柔らかく大きな影で花を包み込みお帰りになります。


そんなお客様の後を決して離れることのない影がついて行きます。私はあなたの側にいつも居るじゃないのと励まして背中を押しているようです。


ふと振り返ると私の後ろにも影が寄り添っていました。そう言えばあなたもいつも私の側に居てくれますね。嬉しいですと伝えると影は漆黒の微笑みを返してくれました。

 

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後日、お客様から手紙が届きました。


「先日はありがとうございました。

助けてくださいなんて情け無いこと言って申し訳ありませんでした。


あれから暫く過去を遡ったり今に戻ったりを繰り返して時間を過ごしていました。一歩も動けなかった自分を考えればかなりの進歩です。

その道中で色々なことを思い出して感情が湧いてきて。そんな無秩序に湧き出ては地面に落ちる思い出や感情というたくさんのシーンを、必死で繋ぎ合わせてみました。

こんなにも熱中して楽しめたのは久しぶりでした。


そしてやっとひとつになったフィルムを心にある映写機で上映してみました。


可笑しくて、懐かしくて、悲しくて、涙して。

そして嬉しくて、また涙して。

平坦な日常だと思っていたことがこんなにも色鮮やかで輝かしいものだと思い知りました。


そしてもうひとつ。

私と妻はこれから違う道を歩むのだと絶望していましたが、元々私たちは同じ道を歩んでいたのではないことに気付きました。

私たちは違う道をそれぞれに最初から歩いていたのです。そしてお互いの道が素晴らしいと感じ惹かれ合い、お互いの道が幸せであるように願って生きてきたのです。だからこれからも私は妻が歩いた色褪せない人生に寄り添い見つめることにします。


あとね、なぜか妻にフィルムを終わらせるなと言われた気がしまして。私が生きている限りフィルムは回り続ける。まだ私たちの映画は終わっていないと。

若い頃に戦死してしまった妻の父は映画制作に携わっていたようです。


実は私も映画を作る仕事に携わっておりまして。端くれながら脚本を書いたりしております。

暫く何も思い浮かばず過ごしていましたが、妻に背中を押されて少し光が見えてきた気がします。


私は妻が居なくなったことに囚われすぎて、妻に花を捧げることも忘れていました。

謝罪の意味も込めてあの花は妻に捧げることにしました」


海からやってくる吐息と、それに反応した苔たちの成熟した胞子が混じり合う今夜の月は朧いでいます。


そんな月を眺めていると私の手も朧いできました。気がつけば私の身体も木々も朧いでいます。全てが朧いでひとつになりそうです。


全ての境界線がなくなりあちら側もこちら側もありません。全てが溶け合い自由に飛んで行けます。

さて、誰と会いましょうか。