うたかた意匠室の短編小箱

静かな森の奥深く 月灯りを頼りに迷い込んだ道先 そこにはあなた様に届けたい 心模様がありました

第十一話 太陽

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。


唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。


満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。


さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 

 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

白菫色に輝く満月を眺めていたら、冷たい風が鼠色の薄雲を携えてやってきました。

薄雲からは月灯りに照らされた絹糸のような雨が垂れ下がり、私の頬を撫でてくれます。

冷たくて凍えそうなはずなのに、絹糸は柔らかくうっとりとして眠ってしまいそうです。薄雲の上には絹糸を吐き出している無数の蚕たちが寄り添い、この宇宙を旅しているのでしょう。この蚕たちは人の手から離れ、自由意思で気ままに絹糸を吐きながら旅をしていると考えると心躍ります。


自由な蚕たちに思いを馳せていると、森の奥から絹糸を纏ったお客様がいらっしゃいました。


「こんばんは。美しい月時雨ですね」


嬉しそうに空を見上げるお客様を見て、私も嬉しくなりました。

彼にも歌うように絹糸を吐く蚕が見えているのかもしれません。


「ここはお花を作ってくださる所と聞きました。ここに来るからにはお花の注文をしようと思ったのですが、私にはお花を贈る方が見当たらなくて。

私は世界中をあちらこちらと飛び回っているものですから、大切な人たちは世界中に散らばり、しかもじっとしている人たちではありません。僕もそうなのですが」


よく陽に焼けた顔と腕を見ればお客様の暮らしぶりが伺えます。


「でもどうしてもこちらでお花を作っていただきたく、色々と考えた挙句、思いついたのは未来の自分に花を届けるということでした。そんなお願いはできるのでしょうか」


「はい。もちろんですとも。

明日も未来ですし、十年後も未来です。いつの未来にいたしましょうか」


「それをいつにしようかと今も悩んでいるのですが。

十年後には様々なことがいよいよ変化しているのでしょうか。この地球も。

…そうだな、いろんな願いを込めて十年後に花をお願いします」


今、太陽は私の遥か遠くにあるはずですが、お客様の顔を見ているとこの部屋に優しい陽射しを感じることができそうです。


「私は小さなころから植物が大好きでして、それが高じて今は世界中の森を守る仕事をしています。

父が蘭の研究をしていたので、休日ごとに植物園に連れて行ってもらい、父の話を聞いて植物のことを知ることが一番の楽しみということから始まったのでしょうね。


世界には人間の知らない植物がまだまだたくさんいます。それに人間が植物の生態を理解しているのもほんの一部。わからないことだらけだ。

彼ら彼女らは人間よりも遥か長くこの地球上に住み、姿形を変えながら適応している。素晴らしい生存システムを駆使して生きているので、人間の僕が守るなんて言い方をすることは本当はおこがましいんですが。


僕たちは植物の恩恵を受けて生きています。植物の存在なしに、他の生物の存在なしに生きていくことはできません。みんな地球という星の素晴らしいシステムの一部として生きている。何が欠けてもならないんです。みんなでひとつなんです。


人間以外の生き物たちは無駄な命の奪い合いはしない。この地球を破壊しようなんてことはしない。様々な生き物たちを観察していると、いかに人間が愚かなのかが浮き彫りになり愕然とします。

ただ、人間は愚かなだけではありません。他の生き物に劣らず、他の生き物と同じように素晴らしいものです。

不安定で脆い人間が僕は大好きです。

こんなにも複雑な感情や思考を与えられたからこそ、それを自分で操ることに悩み苦しむ。単純になれない愛すべき生き物だと思います」


太陽は穏やかで優しい光で私を包んでくれました。


「見事な月下美人ですね」


お客様は窓辺にずらりと並ぶの月下美人を見つめて遠い未来を描いていらっしゃるようです。


「私が次に向かうところは、一面の蘭たちが月の光を浴びて幸せにほほ笑む場所です。そのそばで虫たちは歓喜に舞い、動物たちは優雅に愛を囁きます。まさに楽園です。

ただその楽園が今危機に瀕してるのです。だから私はそこへ向かうのです」


きっと遠くにいる蘭たちはお客様のことを今か今かと待ち望んでいるのでしょう。


「そうだ。今夜ここに来たのには花を頼むということ以前に理由があったのです。

僕のお花の注文は後付けだったのに、話が前後してしまいすみません。


実はある方からあなたに手紙を渡してほしいと預かってきました。

その女性とはある国で出会いました。様々な困難に喘ぐその国で、女性は小さな学校を運営して子供たちに教育の機会を与えている方でした。

ただお年も召してお身体があまりよくないようでした。私が今度一時帰国をすると言いましたら、どうしてもこちらに手紙を届けてほしいと懇願されたのでこちらに伺った次第です」


そう言って白い封筒を渡してくださいました。


「僕からのお願いはここまでです。では十年後にまたお会いできることを願っています。どうかお元気で」


「お客様もどうかお元気で。また少し先の未来でお会いしましょう」


絹糸はお客様を待っていたかのように外で相変わらず垂れ下がり、優しくすべてを撫でながらまたゆっくり移動し始めました。


私は10年後にお渡しする花のことを頭に描きました。

10年後という時間は一瞬にして今となり、今という時間は一瞬にして10年後となり、時空を行き来して目の前にその花は現れます。

 

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消えゆく太陽の背中とそれを守るように側を離れない絹糸たち。

与える側と与えられる側はいつでも自由に入れ替わりお互いの愛を感じることができるのでしょう。

その愛を感じられる瞬間に全てがひとつになるのかもしれません。

あまりに美しい光景になぜか祈ることしかできません。


さて、蝋燭の近くに椅子を置き、女性からの手紙を読むことといたしましょう。


封筒から出した手紙はどこかの海の香りがしました。

第十話 フィルム

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。


唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。


満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。


さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 

訪れる季節を当たり前のように受け入れる虫たちの声が果てしない空まで昇り切り、澄んだ真空が広がります。

いつの間にか私の周りは梟たちが囀る森になっていました。静けさが長いドレスの裾を引きずりながらゆったり歩いて私の前を通ります。


音もなくやって来た満月は、はち切れそうに膨らみ、黙ったままそのうち粉々に破裂するのではと心配になるほどです。

そんなはち切れそうな眩しい灯りに後ろから照らされたお客様の顔も体も、全てが吸い込まれた漆黒となり何も伺えません。

その姿を地面に映した影はお客様よりも早く私の元を訪れました。


「こんばんは。

あと少しだけ、ほんの少しだけ助けて欲しくて伺いました」


今にも影に飲み込まれそうな声が慌てて耳に届きます。


「もちろんお手伝いしますのでゆっくりお話をお聞かせください」


蝋燭の近くで漸くお客様のお顔が目に入りました。


「私の妻が数ヶ月前に亡くなりまして」


膝に置く手を強く握りながら話をされるお客様の

背中をさするように、蝋燭の小さな炎は揺らめきます。


「亡くなる数ヶ月前に病気だと分かったのですが、私には何も出来ることがなく、妻はあっという間に遠くへ行ってしまいました。


私たち夫婦へどこにでもあるようなごく普通の夫婦だったと思います。何が普通かと聞かれましても答えるのは難しいですが…。


お互い仕事がある時は朝におはようと言い、夕食は早く家に帰った方が作り、寝る前におやすみと言う。お互いの仕事が休みの日はお互いの好きなことを尊重して干渉はしません。でも時々お互いの嗜好が合う映画が公開になれば一緒に観に行きました。

映画を観終わった後は、ああでもないこうでもないと感想を交わし眠りにつきます。

妻は私の視点が面白い、自分には無い視点で眼から鱗が落ちるとよく言っていました。


私は逆に妻の感性が私には無いもので、妻の眼鏡を掛けて映画を観てみたいと思ったものです。思い出と言ってもそんな日常しかありません。


妻とはドラマチックな出会いをしたわけでもなく、感情を全面に出してぶつけ合った日々を送った訳でもなく、胃がキリキリしそうな腹の探り合いをした記憶もありません。

ただただ穏やかな日常が流れる、登場人物が二人だけの映画です。


妻が突然亡くなるということは、そんな二人の映画が大したラストシーンが用意されることもなくプツリと終わったようです。今はただ傷の付いたフィルムの黒い映像がジージーと流れている前で私は佇んでいるだけです」


相変わらず蝋燭の炎はエネルギーを使って、ドロドロと自分の身体を溶かしながら揺らめきます。


「そんなある日、私は夢を観ました。

私はある一匹の蜘蛛を見つけます。

どうもこうもその蜘蛛が気になり後を追いかけます。周りには何も無くて真っ白な空間に蜘蛛が歩いているだけ。


ただ、その蜘蛛はあちらこちらに動き回るので私はヘトヘトになって来ました。もうこれ以上は歩けないと思った瞬間、温かい風が吹き、今まで味わったことのないくらい心地よい感覚が私を包みました。ドラマチックでもスリリングでもない穏やかな心地よさです。


すると目の前に花が現れました。よく覚えていないのですが、思わず触れたくなるような、深呼吸をしたくなるような、そんな花だったと思います。

そしてその花に触れた瞬間、真っ白で何もなかった空間に道が現れ、土の匂いがして、たくさんの鳥や虫の声がしました。

こんな風にはっきり覚えいる夢は久しぶりかもしれません」


蝋燭の炎は最後のエネルギーを燃やして大きく瞬きを始めました。


「兎に角、どこまでも続くと思っていた日常が突然終わりを迎え、終わったところからどのようにまた始めればいいのか。

そんなヒントを探して日々ふらふらと歩いているのです。


一体、別れとは何のためにあるのでしょうか。

そんな疑問が頭を巡るのですが。さっぱり思いつきません。

その答えを探すために何故ここに来たのかもよくわかりませんが、あの夢の続きを見たくて花を頼りにしているのかもしれません」


お客様がお帰りになったのを確かめるかのように蝋燭の炎は尽き果てました。

入れ替わるように破裂し掛けている月の灯りが私の足元に差し込みます。

 


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少し萎んだ月は肩の力がやっと抜けて安堵しているようです。


相変わらずお客様は背の高い影と共にいらっしゃいました。


「こんばんは。お花を取りに来ました」


「ありがとうございます。こちらになります」

 

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お客様は柔らかく大きな影で花を包み込みお帰りになります。


そんなお客様の後を決して離れることのない影がついて行きます。私はあなたの側にいつも居るじゃないのと励まして背中を押しているようです。


ふと振り返ると私の後ろにも影が寄り添っていました。そう言えばあなたもいつも私の側に居てくれますね。嬉しいですと伝えると影は漆黒の微笑みを返してくれました。

 

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後日、お客様から手紙が届きました。


「先日はありがとうございました。

助けてくださいなんて情け無いこと言って申し訳ありませんでした。


あれから暫く過去を遡ったり今に戻ったりを繰り返して時間を過ごしていました。一歩も動けなかった自分を考えればかなりの進歩です。

その道中で色々なことを思い出して感情が湧いてきて。そんな無秩序に湧き出ては地面に落ちる思い出や感情というたくさんのシーンを、必死で繋ぎ合わせてみました。

こんなにも熱中して楽しめたのは久しぶりでした。


そしてやっとひとつになったフィルムを心にある映写機で上映してみました。


可笑しくて、懐かしくて、悲しくて、涙して。

そして嬉しくて、また涙して。

平坦な日常だと思っていたことがこんなにも色鮮やかで輝かしいものだと思い知りました。


そしてもうひとつ。

私と妻はこれから違う道を歩むのだと絶望していましたが、元々私たちは同じ道を歩んでいたのではないことに気付きました。

私たちは違う道をそれぞれに最初から歩いていたのです。そしてお互いの道が素晴らしいと感じ惹かれ合い、お互いの道が幸せであるように願って生きてきたのです。だからこれからも私は妻が歩いた色褪せない人生に寄り添い見つめることにします。


あとね、なぜか妻にフィルムを終わらせるなと言われた気がしまして。私が生きている限りフィルムは回り続ける。まだ私たちの映画は終わっていないと。

若い頃に戦死してしまった妻の父は映画制作に携わっていたようです。


実は私も映画を作る仕事に携わっておりまして。端くれながら脚本を書いたりしております。

暫く何も思い浮かばず過ごしていましたが、妻に背中を押されて少し光が見えてきた気がします。


私は妻が居なくなったことに囚われすぎて、妻に花を捧げることも忘れていました。

謝罪の意味も込めてあの花は妻に捧げることにしました」


海からやってくる吐息と、それに反応した苔たちの成熟した胞子が混じり合う今夜の月は朧いでいます。


そんな月を眺めていると私の手も朧いできました。気がつけば私の身体も木々も朧いでいます。全てが朧いでひとつになりそうです。


全ての境界線がなくなりあちら側もこちら側もありません。全てが溶け合い自由に飛んで行けます。

さて、誰と会いましょうか。

 

 

第九話 女王

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。

唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。

満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。

 

さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

空には大きく赤い月が昇り、地球の生物を魅了する匂いを漂よわせています。

遠くの海は泡立ち、この森は酔ったように重い身体を横たえました。

私の身体もふわふわと浮遊しそうでありながら、地面に埋まりそうな不思議な感覚です。

気持ちよく身を委ねていると、お客様がいらっしゃいました。


「こんばんは。お花を頼めますか?」


「はい。どのような方にどのようなお花をお作りいたしましょうか」


「私の親友に贈りたいのです。

学生時代にいつも競い合うように研究に励み、お互いの成果を披露しあっていました。

私は蘭の研究を、親友は海洋生物の研究をしていました。二人は専攻も研究対象もまたく違ったのですが、現在の環境破壊に対して何が自分にできるか?そんな思いが同じで、ライバルであり同志のような存在です。


因みに私は卒業後、蘭の研究を仕事にしています。

ここまで蘭に人生を捧げるとは思ってもいなかったのですが、私の蘭好きは子供のころに見た映画が面白くて、そこから始まりました。


その映画というのが子供たちが冒険に出るいわゆるジュブナイル映画で、冒険に出る場所が果てしなく広がる森でして。その森に住む植物たちと子供たちが力を合わせて敵と戦い成長していく物語です。


その森の女王がとても美しい蘭でした。

子供ながらにその蘭に魅了されまして、早速蘭の図鑑を親に買ってもらって夢中になり、映画に登場した蘭が何という名前でどこに生息しどんな生態なのか、どうしても知りたくて調べましたね。もちろん映画の中の蘭は架空の蘭でしたので同じものは見つけることはできませんでした。


でも子供ながらに蘭は人間に一番近い植物かもしれない。これは大発見だぞと思ったのです。

子孫繁栄のために昆虫に合わせて花の姿を変えたり、動物のようにフェロモンを発して昆虫を惹きつけたりと、蘭を知れば知るほどその魅力に嵌って今に至るといったところです。

蘭といえば香りもまたその魅力で、あのバニラアイスで有名なバニラも蘭です。

他にもチョコレートのような甘い香り、シナモンや胡椒のようなスパイシーな香り、そして腐乱死体のような思わず息を止めたくなる香りもあります。


そんな蘭は人間に様々な効力をもたらすとされ、それは魔力のように崇められた挙句、人間の欲望に翻弄され過剰に摘み取られるという時代も経験してきたのです。

そして今では蘭などに見向きもしない、自分たちの私利私欲にしか興味のない人間たちに、蘭の楽園は破壊され続けているのです。


あ、すみません。蘭のこととなると話が止まらなくなるものですから」


私はこの森に潜む蘭のことに思いを馳せておりました。

夜になると蛾やコウモリを引き寄せては艶めかしく輝くあの蘭たちのことを。


「やつは海洋生物の研究をしていて、今も海のそばで様々な生き物の命を守ろうとしています。


私もそんなあいつに負けないように頑張っているのですが、学生を卒業して社会人一年目で早くも学生時代には味わわなかった現実を目の当たりにして、壁にぶち当たってしまいました。

情けないことですが、やはり現実は思うようにいかず悔しい思いばかりでして。

この現状を変えるために勉強してきたのに、何の役にも立てないちっぽけな自分が不甲斐なく。


学生時代にこの地球を救いたいと夢を語り合い、自分たちが世界を変えるんだと意気込んでいた頃の自分と親友が懐かしくなりました。

会いに行くのは恥ずかしいのですが、話のきっかけになってくれる花を持っていこうかと思いこちらに伺いました」

 

お客様のお帰りを見届けて森への散歩に出掛けます。

今夜はいつもより蛾やコウモリがたくさん飛んでいます。

蘭たちの誘惑に素直に従っているのでしょう。

あのお客様もその誘惑には逆らえないはずです。

どこかで足止めを食らうのでしょうね。

 

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半分になってしまった月は、残りの半分を探すように消えてしまった身体の部分を見つめてます。

微かにチョコレートとシナモンの香りが漂う森から、カメラを携えたお客様がいらっしゃいました。


「こんばんは。花を取りに来ました」


「こちらになります」

 

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「楽園ですね」


そう呟いて蘭とカメラと共にお帰りになりました。

前回にいらしたときに余程魅力的なものと出会われたのでしょう。

今夜も囚われの身となるお客様は蛾やコウモリの仲間ですね。

 

 

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後日お客様から手紙が届きました。


「先日はありがとうございました。

相変わらずの親友の笑顔にほっとしました。


親友もちょうど壁にぶち当たり、私がどうしているのだろうと考えていたところだったそうです。

森も大変なことになっていますが、海も深刻な状況でどこから手を付けてよいのか迷子になったと言っていました。

お互いの状況の話をして、お前が壁にぶち当たっているのなら、俺はお前より早く立ち直ってみせると言われまして。ならば私も負けてはいられません。


私たちはまだやっと現実世界に歩き始めたばかりの人間です。

頭で描いていた理想には程遠く、苦しくどうしてよいかわからなくなる時もあります。


そしてお話していた子供のころに観たあの映画のことを思い出しました。

主人公の少年少女たちが森の植物たちと知恵を絞り、勇気を出し、励ましあい、力を合わせてとてつもない敵と戦う。

あれは映画の世界のファンタジーですが、今の現実の世界とそう変わらないと私は思います。

ただ、映画は二時間そこそこで決着が付きますが、現実はそうはいきません。だから焦らず諦めずやっていくことにします。


そんな旅を続けていたら、いつかあの映画に出てきた蘭の女王にもそのうち会えるかもしれませんね。


そうだ、あそこの森にも凄い女王がいそうですよ。何とか出会いたくて魅力的な香りを辿って探しましたが、会うことは叶いませんでした。蛾やコウモリたちはきっと出会っているのだろうな。人間であることが悔しくなる瞬間です」


今夜は森の奥深くまで歩いてみましょうか。

そう言えば、この森の女王に私はまだ挨拶をしていませんでした。

どんな女王なのでしょう。

優しい女王でしょうか。

賢い女王でしょうか。

怖い女王でしょうか。

いずれにせよ、私は女王の前では他の生き物同様、身を委ねるしか無いのです。

 

 

 

第八話 雨

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。


唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。


満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。


さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 


太陽の名残がなおも強く残る今夜は、少し息苦しくもあります。熱い塊となった風が次々と通り過ぎます。どこかへ帰って行くようですが、どれもその足取りは重く俯き加減。誰もが帰り道に迷わないよう外に蝋燭を灯しておきましょう。


ところが蝋燭に火を付けた瞬間、先程まで重く漂っていた情景を突然の旋風が森から現れて一帯を散らして通り過ぎました。


消えてしまった蝋燭に再び火を灯した時、森の奥から手を繋いだ二人の影が見えました。


母親でしょうか。小さな女の子の手を引いて辺りを不思議そうに眺めながらいらっしゃいました。


「すみません。森を歩いておりましたら迷ってしまいここに辿り着きまして。ここは一体…。あなたはどちら様でしょうか」


母親は何故ここに居るのかさっぱり分からないという不思議な表情の中に、安堵の雰囲気も漂っています。


「私はお客様のご要望にお応えして花を作っている者です」


「まぁ…花ですか」


花という存在自体の記憶を先程まで失くしていたような声が漏れました。


「そう言えば以前は我が家の小さな庭に江戸菊や小菊、フランスギクなどを一面に植えておりました。

しかし、あの空襲で我が家もろとも消え去りました。

消え去ったのは家と庭の花だけではありません。私の夫も亡くなりました。私の夫だけではありませんね。おびただしい数の人々が一瞬にして消えてしまいました。

なんということでしょうか。正気の沙汰ではありません。

そうです。正気の沙汰ではない世の中で正気を保つことがどれほど難しく苦しいことか。


明日が来ることが恐ろしいと感じてしまう私が悪いのでしょうか。

覆い被さる鉛のような重さに立ち向かえない私が弱いのでしょうか。

誰も助けてくれないと嘆く私がいけないのでしょうか」


母親の目から涙が次々と溢れ出しました。


地面に落ちる涙はやがて海に向かいます。

感情という液体を身体中のエネルギーという炎で温めて気化したものが冷えて涙になります。

ただ塩っぱいだけの純粋な液体となった涙は、用がなくなり人の身体から排出されて地面に落ち、海へ向かう旅に出るのです。

だから海の水は塩っぱい。

だから海は私たちを優しく懐かしく包むのです。

私は小さな頃からそう信じています。


涙の壮大な旅路を頭で思い描きながらふと母親の手をそっと握った女の子を見ると、通り過ぎる熱い風が気になるのか、森を振り返ったり空を見上げたりしています。

彼女は熱い塊となった風たちの長い旅路に思いを馳せているのでしょう。


「すみません。私のことばかり。あなた様もきっとご苦労されましたのに」


「いいえ。私は大丈夫です。

花をお作りいたしましょうか。10日後にまたこちらでお渡しいたしますよ」


「なんのご縁かこちらに辿り着いたのですから、ぜひにお願いいたします」


母親と女の子は熱い風が向かう方向とは反対にお帰りになりました。

熱い風たちはまだ足取り重く歩き続けています。

やはり今夜は明星が現れるまで、蠟燭を灯しておくことといたしましょう。

 

 

 

…………………………………

 

 

 

風たちはみんな無事に行き着くべき場所に無事に辿り着いたのでしょう。今夜の森は小さな無数の水滴が穏やかな波のように漂っているだけです。


「こんばんは。お花を取りに伺いました」


母親の手を握った女の子のもう一つの手には、森で摘まれた小さな花が数本握られていました。


「ありがとうございます。こちらになります」

 

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母親の目からまた涙が溢れます。

どのような感情から生まれようと、溢れた涙はみな純粋で同じです。涙が溢れるということは自分自身を労り愛する優しさを生み出し、そして他人を労り愛することに繋がっているのです。


女の子は花を覗き込み、手に握っていた花を私の作った花に添えてくれました。

 

 

 

…………………………………

 

 

 

後日、お客様から手紙が届きました。


「実を申しますとあの夜、娘を連れて夫の元へ行こうと、事を為すべきその場所をふらふらと探しておりました。そんな朦朧としていた時にそちらに辿り着きました。夫が案内したのかもしれません。


あの時の私は全ての気力が無く、途方に暮れていたのでございます。


しかし、あの夜ずっと我慢をしていた感情が溢れてしまい涙が流れました。

そして目が覚めたように思い出しました。

私には夫と育んだ大切な娘の命があります。

そして命に上も下もございません。

私自身の命も大切に愛してあげなくてはならないのです。庭に咲いていたあの花たちの命も同じです。


生かされた命です。

生きとし生けるもの全ての命を愛することが、この世があのようなおぞましい世界にならぬように祈ることと同じことになる、そう信じることにいたしました。


私は以前女優として映画作りの仕事に携わっておりました。

これからの世の中でこの仕事が必要とされる日が来るのか分かりませんが、女優という仕事を通して、今の思いをこれから表現できたらと存じます。

夫も生前、映画作りに携わっておりましたから、私の決心を喜んでくれていると思います。


娘はあれから毎日のように道に咲く花を摘んでは家に飾っております。

また小さな庭で娘と花を育てられる日を楽しみに過ごすことといたします。


室長様もどうかお身体を大切に。

大変な世の中ですが、生かされた同志として、私たちはいつも見えない糸で繋がっていると思うと勇気が湧くものです」


雨がポツリポツリと落ち出しました。

純粋な涙の海は純粋な雲を作り出し、純粋な雨を降らせます。

だから私は雨が好きなのです。

私の手のひらに落ちたこの雨粒は、どんな人のどんな感情から生まれた涙が旅をしてきたのでしょうか。

森の植物たちは今夜も雨を吸い上げ優しく微笑みます。

 

 

第七話 夢

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。


唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。


満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。


さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 


十日夜の月が目一杯弓を引く頃、一通の手紙が届きました。


「突然の手紙で失礼いたします。

夫に花を届けたくてお手紙を書いております。


夫とはある日を境に会えなくなりました。

会えなくなってから私たちはお互いとても辛い時間を過ごしたのですが、夫はその時間から立ち止まって動けなくなってしまったのです。

そんな彼を感じると私も苦しく前には進めなくて。

 

彼から感じるのは深く際限のない悲しみと柔らかく温かい愛情です。この二つが混じり合うと生温かい大きな鉛色の雲となり私を包みます。私はいつまでもその雲に包まれていたいという反面、あまりの息苦しさに逃げ出したくもなります。


私は彼が一歩足を踏み出し前に進めますように、美しい空を見上げられますように、細胞のひとつひとつが蘇るような深呼吸ができますように、慰みの清らかな涙が流せますように、そんな想いを伝えたいのです。

 

しかし、私たちの距離はあまりにも遠く離れてしまいその手段がありません。

ですから、私は彼の夢にあなたの作る花を届けるつもりです」


私はふと外が気になり窓を覗き込みました。

そこには先程までと同じ淡い光が立ち込めていますが、遠く彼方にあった小さな水の粒が少しずつ集まり地上に降りてきているようです。


「もうひとつお願いがあります。

夫に届ける花は次の満月に扉の外に置いてもらえますか?

あなたに会いたくない訳ではありません。

大変失礼なお願いかもしれませんが、必ず取りに参りますのでどうか聞いてはくださらないでしょうか」


いつの間にか降りてきた水の粒は扉の隙間を潜り私の足元にもやって来ました。

温かく柔らかい雲のようです。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

次の満月がやってきました。

そして空には幾重にも積み上がった鈍色の雲も一緒に次々とやって来て、天をしっかり蓋をするように隙間なく成長していきます。

先程まで吹いていた生暖かい風がぴたりと止んだ瞬間、ボトボトと大粒の雨が空から垂直に暗闇を突き刺し、辺り一体の存在を遮断し始めました。


私は扉の外に椅子を出し、その上に用意した花を置きます。辛うじて突き出た屋根が花を重い雨から守ってくれます。

 

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お客様はここに無事辿り着き花を受け取れるのだろうかと私は不安になります。


暫く外を眺めていましたが、こんな日は他にお客様もいらっしゃらないのでないので眠ることにします。


屋根に落ちて跳ねる雨粒の音。

苔に突き刺さりそのまま染みていく雨粒の音。

秘密の湖に飛び込んで潜り込む雨粒の音

様々な雨粒の音は重なり合いながら子守唄となり、私は間もなく夢の扉の前に立ちました。


扉を開けるとそこには今宵の森と同じく暗闇があるだけ。

ただ、無数にあった雨粒の音は消え去り漆黒の音しか聞こえません。

私はゆっくり歩き出します。

足元がふかふかとしてまるで宇宙を踏み締めているような不思議な感覚です。

その感覚が楽しくて、どこが前だか後ろだか分からない場所を歩き続けます。

すると何かにぶつかります。とても柔らかいものです。透明で柔らかくてふわふわしているのにどうしてもそれ以上前には進めない。

どうやら私が今まで踏み締めていたものが前方にも現れたようです。

前に進めないからよじ登ってみることにします。

まるで宇宙へ繋がる梯子のような気持ちの良い感覚でしたが、暫くするとまたふわふわしたものにぶつかりそれ以上登れなくなります。

ふと気がつくと私はふわふわしたものに囲まれて身動きが取れなくなっていました。

でもそれは恐ろしさを感じるものではなく、そのまま身を委ねたくなる心地よさです。

あまりの心地よさにウトウトし出した頃、目が覚めました。


いつの間にか雨は止み、外は夜明け前の青藍になっていました。

私はあの花がどうなったか気になり、扉の外に出ます。

椅子の上には何もありません。

お客様が無事に取りに来てくださったのでしょう。


ふと視線を上げると、屋根の下には今までに見たこともないくらいに大きく美しい蜘蛛の巣が張られていました。

よく目を凝らさないと見えないくらいに細い糸が幾重にも寄り添い、自然に委ねたリズムに乗って作られた形は、宇宙からの手紙のようです。


昨夜の雨粒の子供たちも蜘蛛の糸に吸い寄せられ、周囲の青藍を映し出すことでさらなる美しいメッセージを奏でます。


そう言えば、昔ある人から聞いたことがあります。蜘蛛の糸は夢を掴まえてくれると。


大切な人の夢を掴まえてその人の夢に入って行けたら、どんなに幸せなことでしょうか。


夢の中でお互いの手に触れて体温を感じ、お互いの目を見て魂の振動を感じ、永遠という一瞬を心で感じる。


どんなに幸せなことでしょうか。


私は壊れないようそっと蜘蛛の巣に触れます。

そして私の夢が誰かの手の中に掴まれることを心に描きます。

いつの間にか蜘蛛の巣は夜明けの曙色に染まりました。

第六話 温室

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。

唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。

満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。


さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 

久しぶりに降った雪は全ての音を吸い込みます。そして遠くで輝く三日月の光も吸い込みます。

全てを吸い込んだ雪に耳を当てたらどんな声が聞こえてくるのか。

両手で雪をすくって耳を当ててみました。

ヒソヒソと交わされる会話はあまりにも赤裸々で、勝手に聞き耳を立てたことを申し訳なく思いました。


決まりが悪く佇んでいると、サクッサクッと音を引き連れお客様がいらっしゃいます。


「こんばんは。素敵な雪模様ですね」


お客様の息は口から飛び出した瞬間から氷の粒となりゆっくり四方八方へ泳ぎ出します。


「ある男の子にお花を届けたくて。お願いできますか?」


「はい、もちろんです。どうぞ中へ」


今夜はとても冷えるので蝋燭をたくさん灯しましょう。蝋燭で青い光が消えてオレンジの光が広がります。


オレンジの中でお客様の指にそっと寄り添う美しい緑を見つけました。


「素敵な指輪ですね」


「ありがとうございます。

これは私の婚約者からいただいたもので。モルダバイトという石だそうです。厳密には石ではなくガラスだと言っていましたが。

ガラスと言ってしまうとなんだか価値が半減してしまいそうで。詳しいことは私には分かりませんが、奇跡の暗号のようなものらしいです。

さっぱり分かりませんよね」


お客様は肩をすくめて恥ずかしそうに、でもとても嬉しそうに私に見せてくださいました。


「私はある植物園で働いております。小さな植物園ですが、温室ドームがとても素敵で、まるで違う星にやって来たような不思議な気持ちになります。


一年中温かく、小さな滝や池も作られ世界中の植物が集められ大切に育てられているのですが、その数は職員の私も把握するのが大変なくらい。


時々ふと思います。職員の知らないところで見たこともない植物がひっそりと棲みついているのでは?と。きっとそれは宇宙から落ちてきた種が育って慎ましく生きている。そんな風に思うと毎日見慣れた景色も少し緊張感をもってしまいます」


お客様は指に寄り添った緑を優しく撫でながらお話を続けます。


「その男の子がやってきたのは2年ほど前からでしょうか。毎週日曜日になるとお父さんと一緒に朝一番に温室にやって来て、必ずお昼過ぎまで熱心に植物を眺めるのです。

ある時は持ってきた図鑑を広げたり、またある時はスケッチブックに写生をしたり。

蘭が群生している場所では花の香りを嗅いでそれをメモしているのも見たことがあります。私なら甘いとか清々しいとか、そんな表現しかできそうもないですが、男の子はひとつの蘭の香りについて長々と感想を書いていました。


こんなにも植物のことが好きな子供なら、大きくなったらきっと植物学者にでもなれるのではといつも思っていました」


いつの間にかオレンジは部屋をドーム状に覆っています。


「いつもは親子をそっと眺めているだけでしたが、ある日男の子に声を掛けてみました。


どうして植物がすきなの?と。


気の利いた質問が出てこなくて自分でも情けなくなりましたが、男の子はしっかり答えてくれました。


植物はみんな違う色や形や性格をしているのに、とても仲良く一緒にいる。

意地悪はしない。

仲間を守るために戦うことはあっても意地悪はしない。

人間の僕も植物の仲間だと思う。

人間っていう種類の植物。

僕は仲間のことをよく調べて色んな気持ちを分かるようになりたい。


そんな風に答えてもらって驚きました。


そんな男の子でしたが、ある日を境に姿が見えなくなりました。その代わりに、男の子のお父さんが1人でやってきて熱心に植物の写真を撮っていらっしゃいました。


そんなことが一か月続き、流石に気になってお父さんに聞きました。男の子のことを。

すると、男の子はある病に罹り入院しているとのことでした。なかなか退院できず、毎週ここの植物の写真を撮って病室で見せてあげているそうです。


私には何もしてあげられないのですが、男の子が元気になってくれるような花を届けたくてこちらに伺ったのです」


「承知しました。それでは次の満月にお越しください。ご用意しておきます」


お客様はオレンジと緑を纏いながら月灯りを吸い込んだ雪の中をお帰りになりました。

どこからか甘くしっとりとした香りが鼻をかすめた気がします。

 

 

 

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雪は溶けてぐっしょり濡れた森は身震いをしているようです。

月も薄ら雲を被り、顔を出すのも億劫だと言っています。


お客様は鉢を抱えていらっしゃいました。


「こんばんは。花を受け取りにきました。

それからこれ。月下美人です。この間こちらに伺った時に、ここなら月もよく見えて月下美人がとても喜んでくれそうと思ったので。私が育てているうちの一鉢を連れてきました。まだ寒いので花は付いていませんが、夏の様子を伺い始めてから冬の訪れを感じる頃にかけて咲いてくれると思います」


そう言って窓辺に月下美人の鉢を置いてくださいました。


「こんな寒い時にごめんなさい。でもここなら絶対大丈夫と思ったもので」


「ありがとうございます。大切に育てます」

月下美人を受け取り、代わりに男の子への花をお渡ししました。

 

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お客様は月下美人の代わりに男の子への花を抱えてお帰りになりました。


窓から月下美人がお客様の背中を見つめます。

 

 

 

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後日、お客様から手紙が届きました。


「この間はありがとうございました。

すぐに男の子の元へお花を届けました。彼はとても喜んでくれ、早く植物園に行きたいと話してくれました。

お父さんに聞けば来月には退院できるそうです。

本当に良かったです。


退院したら彼には温室にひっそり暮らしている宇宙からやってきた植物を見つけてほしいと思っています。

そして彼ならたった1人で生きているその植物の仲間を増やして寂しくないようにしてくれます。

彼にはその力があります。


私にはそんな力は無いかもしれないけれど、何かまた別の力が備わった人間という種類の植物だと自分で思っています。


みんなそれぞれに使命を持ってこの地球に生まれているのでしょう。彼のように使命を思い出せれば幸いですが、私みたいに思い出せない人間もいる。

でも落ち込んだりしません。

それを見つけ出して思い出す過程が冒険であり、生涯を掛ける価値のあるものだから。

毎日美しい命たちと向き合いながら焦らずゆっくり探すつもりです。


室長さんはもう見つけられている気がしますが、いかがかしら?」


窓辺の月下美人は今夜も私には背を向けて月を眺めながら黙っています。

声を掛けようかと思いますが、何と声を掛けて良いのか言葉が見つからず一緒に月を眺めることにします。


私はまだ道の途中で彷徨っています。月灯りが次の道を照らしてくれると良いのですが、いつまで経っても道は見えません。

いつか次に進むことがあるかもしれませんし、いつまでもここに留まるのかもしれません。

それは宇宙に委ねるとことといたします。


さて、今夜は満月が地球の裏側から熱帯に咲く花たちの香りを引き連れて通り過ぎます。

ベルベットのような香りは冷たい空気に晒され、甘い粉雪に変容して私の掌に落ちました。まるで宇宙から降ってきた種のようです。

 

 

第五話 暗号

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。


唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。


満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、

新月には誰も辿り着くことができません。


さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 

虫の声が少しずつ周囲の空気に吸い込まれ静けさが現れ出した頃、空には覆い被さるように上弦の月も現れます。


窓辺ではもうすぐ終わる柔らかい暖かさを惜しむように、ずらりと並んだ月下美人が一斉に咲き出しました。

窓を開け放ち、むせ返るほどの香りを月にも届けましょう。


この香りに引き寄せられて誰かいらっしゃらないかと窓から外を覗くと、お客様の姿が見えました。お客様がお召しになっているシャツには森の緑と月灯りの青が映り込んでいます。


「こんばんは。若い頃にお世話になった方へ花を贈りたくて伺いました」


月下美人の香りに引き寄せられたお客様は、きっと蛾の生まれ変わりではないかと心踊ります。

オオミズアオのような淡い森の色と、空高く昇った月灯りの色を合わせたような色のシャツを着ていらっしゃったので、オオミズアオの生まれ変わりかと思いました。しかし、オオミズアオは成虫になってから何も食べないので、それではないと少し残念に思ってしまいます。

それに室内に入ったお客様のシャツの色は、蝋燭に照らされた蜜柑色に変わっていました。


「私は幼少期から色々ございまして…。お恥ずかしながら幼い頃から世の中を憎み、自分の境遇を恨み、何よりも自分自身を嫌う日々を送っていました。


もちろん学生時代も誰にも心を開くことなく自分の殻に閉じこもるばかりでして。

何に希望を見出せばいいか分からないある日、私は声が出せなくなりました。

明日なんて来なければいいと思っていたそんな14歳の頃、ある先生に出会いました。


誰にも心を開くことなく過ごしていたのに、その先生は何故か私が石を好きなことを見抜いて時々話しかけて来てくれました。


初めは他の人と同じで声の出ない人間に興味があるだけなのだろうと無視をしていたのですが、魅力的な石のコレクションを毎日私に見せてくれて。そのうちその先生だけには少しずつ心を開くようになっていきました。


ある日、私は先生が一番好きな石は何?とノートに書いて聞いてみました。


先生は魅力的な石たちに順位を付けるのはなんだか気が引けるけれど、小さな声で私にだけ教えるならラピスラズリだと答えてくれました。

ラピスラズリは古代ローマ時代から星のきらめく天空の破片と言われ、エジプトでは天空と冥界を司るオシリス神の石とされていたそうです。

この石を見ていると、いつでも宇宙を眺めている気分になれる。

悲しい時や寂しい時、ラピスラズリを握って私の大切な人がいる宇宙を感じる。そうすればどんな夜でも眠れる。私にとってはお守りのような石よと話されました」


よく見るとお客様のネクタイは黒の水玉模様です。ゴマダラノメイガの生まれ変わりかしらとお話を伺いながら、頭の隅でゴマダラノメイガが羽ばたきます。


「そして、あなたが一番好きな石は何?と聞かれ、私はノートに《モルダバイト》と書きました。


先生はとても楽しそうな顔をして私に教えてくれました。

モルダバイトは厳密には石じゃない。隕石が地球に落ちて来た時の衝撃で形成された天然のガラス。

でもモルダバイトは地球の地面と宇宙にある石がぶつかって誕生する奇跡の暗号のような特別なもの。

その宇宙からの暗号が一番好きだというあなたは、人生を掛けてその暗号を解くべきだと言われました。


それから私は先生に会うために毎日学校へ行き勉強に励み、先生と別れる頃には声が出せるようにもなっていました。


そして先生と別れた後、私はいつの間にか地学の教師を目指すようになり、お陰様で先日、退職を迎えるまで教員を務め続けてこられました」


石が好きな蛾の生まれ変わりのお客様が、宇宙の暗号を解くなんて素晴らしいことです。


「幸せな人生に導いてくださった先生にまた会いたくなり、感謝の気持ちを込めて花をプレゼントしようと伺いました。


窓辺の月下美人が美しいですね。

ここに近づくと素晴らしい香りも漂ってきました。

数年前に旅立った私の妻も月下美人が大好きで毎年美しい花を咲かせていました。

今は娘が全て引き取り育てています。

私は枯らしてしまっては大変だと尻込みして上手く育てられません」


お帰りになるお客様の背中にはたっぷりと鱗粉を蓄えた羽根があり、次の花の蜜を吸うために小さく羽ばたきます。

鱗粉の香りと月下美人の香りが混じり合う美しい夜になりました。

 

 


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今夜も窓辺では月下美人が蛾やコウモリを誘惑するように香りを立ち上がらせながら咲いています。


「こんばんは。花を取りに伺いました」


お客様は茶色い薄手のセーターを羽織っていらっしゃいました。


「ありがとうございます。こちらになります」

 

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花の中に宇宙を見つけるようにしげしげと視線を探索させた後、そっと大事なものを壊さないようにと花を抱えて帰られました。


風は少し冷たくなり始めたようです。月下美人たちも月夜を謳歌してすっかり眠むたそうに俯き始めます。

 

 


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後日、お客様から手紙が届きました。


「先日はありがとうございました。

お陰様で久しぶりに先生に会えて楽しい時間を過ごしました。

先生の目は見えなくなっていましたが、その瞳は長年掛けて形成された鉱石のようでした。

覗き込むとラピスラズリのようなとても美しい瞳。


モルダバイトの暗号は解けた?と聞かれましたが、そればかりはまだ見つけられていないので、これからの人生を暗号解明に注ぎますと伝えました。


でも、あのモルダバイトの優しい緑を見ていると、宇宙から降り注ぐ愛を私は感じます。


どこにいようと降り注ぐ愛はいつでもどんな人でも受け取れる。その人が手を広げさえすれば。

愛を受け取るのも受け取らないのもその人次第で、人はもがき苦しむからこそ、そこにある愛に気づき、その愛にフォーカスできれば幸せになれるのではないでしょうか。


暗号の答えとしてはまだまだ入り口に立っているような気がするので、先生にはそのことは伝えていませんが。


私は幼い頃から人に期待することが怖かった。人に裏切られて傷つくのが何よりも怖かったからです。

でも本当は誰よりも人を信じて愛されたかった。そして誰かを信じて愛したかった。


そんな心からの欲求を押さえ込むことなく、恐れずに生きていくことの素晴らしさを自然に教えてくれたのは先生とモルダバイトなのでしょうね」


あんなにも月夜を謳歌していた蛾たちもいつも間にか姿が見えません。冬支度が忙しくなるころなのでしょうか。

私もそろそろ冬支度。

蚕蛾のような毛布を出して、繭に包まれ夢を見ましょう。人間に茹でられないように祈りながら。