うたかた意匠室の短編小箱

静かな森の奥深く 月灯りを頼りに迷い込んだ道先 そこにはあなた様に届けたい 心模様がありました

第八話 雨

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。


唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。


満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。


さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 


太陽の名残がなおも強く残る今夜は、少し息苦しくもあります。熱い塊となった風が次々と通り過ぎます。どこかへ帰って行くようですが、どれもその足取りは重く俯き加減。誰もが帰り道に迷わないよう外に蝋燭を灯しておきましょう。


ところが蝋燭に火を付けた瞬間、先程まで重く漂っていた情景を突然の旋風が森から現れて一帯を散らして通り過ぎました。


消えてしまった蝋燭に再び火を灯した時、森の奥から手を繋いだ二人の影が見えました。


母親でしょうか。小さな女の子の手を引いて辺りを不思議そうに眺めながらいらっしゃいました。


「すみません。森を歩いておりましたら迷ってしまいここに辿り着きまして。ここは一体…。あなたはどちら様でしょうか」


母親は何故ここに居るのかさっぱり分からないという不思議な表情の中に、安堵の雰囲気も漂っています。


「私はお客様のご要望にお応えして花を作っている者です」


「まぁ…花ですか」


花という存在自体の記憶を先程まで失くしていたような声が漏れました。


「そう言えば以前は我が家の小さな庭に江戸菊や小菊、フランスギクなどを一面に植えておりました。

しかし、あの空襲で我が家もろとも消え去りました。

消え去ったのは家と庭の花だけではありません。私の夫も亡くなりました。私の夫だけではありませんね。おびただしい数の人々が一瞬にして消えてしまいました。

なんということでしょうか。正気の沙汰ではありません。

そうです。正気の沙汰ではない世の中で正気を保つことがどれほど難しく苦しいことか。


明日が来ることが恐ろしいと感じてしまう私が悪いのでしょうか。

覆い被さる鉛のような重さに立ち向かえない私が弱いのでしょうか。

誰も助けてくれないと嘆く私がいけないのでしょうか」


母親の目から涙が次々と溢れ出しました。


地面に落ちる涙はやがて海に向かいます。

感情という液体を身体中のエネルギーという炎で温めて気化したものが冷えて涙になります。

ただ塩っぱいだけの純粋な液体となった涙は、用がなくなり人の身体から排出されて地面に落ち、海へ向かう旅に出るのです。

だから海の水は塩っぱい。

だから海は私たちを優しく懐かしく包むのです。

私は小さな頃からそう信じています。


涙の壮大な旅路を頭で思い描きながらふと母親の手をそっと握った女の子を見ると、通り過ぎる熱い風が気になるのか、森を振り返ったり空を見上げたりしています。

彼女は熱い塊となった風たちの長い旅路に思いを馳せているのでしょう。


「すみません。私のことばかり。あなた様もきっとご苦労されましたのに」


「いいえ。私は大丈夫です。

花をお作りいたしましょうか。10日後にまたこちらでお渡しいたしますよ」


「なんのご縁かこちらに辿り着いたのですから、ぜひにお願いいたします」


母親と女の子は熱い風が向かう方向とは反対にお帰りになりました。

熱い風たちはまだ足取り重く歩き続けています。

やはり今夜は明星が現れるまで、蠟燭を灯しておくことといたしましょう。

 

 

 

…………………………………

 

 

 

風たちはみんな無事に行き着くべき場所に無事に辿り着いたのでしょう。今夜の森は小さな無数の水滴が穏やかな波のように漂っているだけです。


「こんばんは。お花を取りに伺いました」


母親の手を握った女の子のもう一つの手には、森で摘まれた小さな花が数本握られていました。


「ありがとうございます。こちらになります」

 

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母親の目からまた涙が溢れます。

どのような感情から生まれようと、溢れた涙はみな純粋で同じです。涙が溢れるということは自分自身を労り愛する優しさを生み出し、そして他人を労り愛することに繋がっているのです。


女の子は花を覗き込み、手に握っていた花を私の作った花に添えてくれました。

 

 

 

…………………………………

 

 

 

後日、お客様から手紙が届きました。


「実を申しますとあの夜、娘を連れて夫の元へ行こうと、事を為すべきその場所をふらふらと探しておりました。そんな朦朧としていた時にそちらに辿り着きました。夫が案内したのかもしれません。


あの時の私は全ての気力が無く、途方に暮れていたのでございます。


しかし、あの夜ずっと我慢をしていた感情が溢れてしまい涙が流れました。

そして目が覚めたように思い出しました。

私には夫と育んだ大切な娘の命があります。

そして命に上も下もございません。

私自身の命も大切に愛してあげなくてはならないのです。庭に咲いていたあの花たちの命も同じです。


生かされた命です。

生きとし生けるもの全ての命を愛することが、この世があのようなおぞましい世界にならぬように祈ることと同じことになる、そう信じることにいたしました。


私は以前女優として映画作りの仕事に携わっておりました。

これからの世の中でこの仕事が必要とされる日が来るのか分かりませんが、女優という仕事を通して、今の思いをこれから表現できたらと存じます。

夫も生前、映画作りに携わっておりましたから、私の決心を喜んでくれていると思います。


娘はあれから毎日のように道に咲く花を摘んでは家に飾っております。

また小さな庭で娘と花を育てられる日を楽しみに過ごすことといたします。


室長様もどうかお身体を大切に。

大変な世の中ですが、生かされた同志として、私たちはいつも見えない糸で繋がっていると思うと勇気が湧くものです」


雨がポツリポツリと落ち出しました。

純粋な涙の海は純粋な雲を作り出し、純粋な雨を降らせます。

だから私は雨が好きなのです。

私の手のひらに落ちたこの雨粒は、どんな人のどんな感情から生まれた涙が旅をしてきたのでしょうか。

森の植物たちは今夜も雨を吸い上げ優しく微笑みます。