ここは森の奥深く。
目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。
唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。
満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。
さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。
十日夜の月が目一杯弓を引く頃、一通の手紙が届きました。
「突然の手紙で失礼いたします。
夫に花を届けたくてお手紙を書いております。
夫とはある日を境に会えなくなりました。
会えなくなってから私たちはお互いとても辛い時間を過ごしたのですが、夫はその時間から立ち止まって動けなくなってしまったのです。
そんな彼を感じると私も苦しく前には進めなくて。
彼から感じるのは深く際限のない悲しみと柔らかく温かい愛情です。この二つが混じり合うと生温かい大きな鉛色の雲となり私を包みます。私はいつまでもその雲に包まれていたいという反面、あまりの息苦しさに逃げ出したくもなります。
私は彼が一歩足を踏み出し前に進めますように、美しい空を見上げられますように、細胞のひとつひとつが蘇るような深呼吸ができますように、慰みの清らかな涙が流せますように、そんな想いを伝えたいのです。
しかし、私たちの距離はあまりにも遠く離れてしまいその手段がありません。
ですから、私は彼の夢にあなたの作る花を届けるつもりです」
私はふと外が気になり窓を覗き込みました。
そこには先程までと同じ淡い光が立ち込めていますが、遠く彼方にあった小さな水の粒が少しずつ集まり地上に降りてきているようです。
「もうひとつお願いがあります。
夫に届ける花は次の満月に扉の外に置いてもらえますか?
あなたに会いたくない訳ではありません。
大変失礼なお願いかもしれませんが、必ず取りに参りますのでどうか聞いてはくださらないでしょうか」
いつの間にか降りてきた水の粒は扉の隙間を潜り私の足元にもやって来ました。
温かく柔らかい雲のようです。
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次の満月がやってきました。
そして空には幾重にも積み上がった鈍色の雲も一緒に次々とやって来て、天をしっかり蓋をするように隙間なく成長していきます。
先程まで吹いていた生暖かい風がぴたりと止んだ瞬間、ボトボトと大粒の雨が空から垂直に暗闇を突き刺し、辺り一体の存在を遮断し始めました。
私は扉の外に椅子を出し、その上に用意した花を置きます。辛うじて突き出た屋根が花を重い雨から守ってくれます。
お客様はここに無事辿り着き花を受け取れるのだろうかと私は不安になります。
暫く外を眺めていましたが、こんな日は他にお客様もいらっしゃらないのでないので眠ることにします。
屋根に落ちて跳ねる雨粒の音。
苔に突き刺さりそのまま染みていく雨粒の音。
秘密の湖に飛び込んで潜り込む雨粒の音
様々な雨粒の音は重なり合いながら子守唄となり、私は間もなく夢の扉の前に立ちました。
扉を開けるとそこには今宵の森と同じく暗闇があるだけ。
ただ、無数にあった雨粒の音は消え去り漆黒の音しか聞こえません。
私はゆっくり歩き出します。
足元がふかふかとしてまるで宇宙を踏み締めているような不思議な感覚です。
その感覚が楽しくて、どこが前だか後ろだか分からない場所を歩き続けます。
すると何かにぶつかります。とても柔らかいものです。透明で柔らかくてふわふわしているのにどうしてもそれ以上前には進めない。
どうやら私が今まで踏み締めていたものが前方にも現れたようです。
前に進めないからよじ登ってみることにします。
まるで宇宙へ繋がる梯子のような気持ちの良い感覚でしたが、暫くするとまたふわふわしたものにぶつかりそれ以上登れなくなります。
ふと気がつくと私はふわふわしたものに囲まれて身動きが取れなくなっていました。
でもそれは恐ろしさを感じるものではなく、そのまま身を委ねたくなる心地よさです。
あまりの心地よさにウトウトし出した頃、目が覚めました。
いつの間にか雨は止み、外は夜明け前の青藍になっていました。
私はあの花がどうなったか気になり、扉の外に出ます。
椅子の上には何もありません。
お客様が無事に取りに来てくださったのでしょう。
ふと視線を上げると、屋根の下には今までに見たこともないくらいに大きく美しい蜘蛛の巣が張られていました。
よく目を凝らさないと見えないくらいに細い糸が幾重にも寄り添い、自然に委ねたリズムに乗って作られた形は、宇宙からの手紙のようです。
昨夜の雨粒の子供たちも蜘蛛の糸に吸い寄せられ、周囲の青藍を映し出すことでさらなる美しいメッセージを奏でます。
そう言えば、昔ある人から聞いたことがあります。蜘蛛の糸は夢を掴まえてくれると。
大切な人の夢を掴まえてその人の夢に入って行けたら、どんなに幸せなことでしょうか。
夢の中でお互いの手に触れて体温を感じ、お互いの目を見て魂の振動を感じ、永遠という一瞬を心で感じる。
どんなに幸せなことでしょうか。
私は壊れないようそっと蜘蛛の巣に触れます。
そして私の夢が誰かの手の中に掴まれることを心に描きます。
いつの間にか蜘蛛の巣は夜明けの曙色に染まりました。