ここは森の奥深く。
目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。
唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。
満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。
さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。
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今夜は幽玄な朧月に目を奪われています。
周囲は水の粒子に満ち、風が吹くたびに土や木々は深く息を吸いその水の粒子を染み込ませます。
そんな風と共にお客様は少し息を切らせていらっしゃいました。
「こんばんは。お花を注文したいのですが。
えっと、花をプレゼントするのが初めてで、なんというか、よろしくお願いします」
お客様は少し落ち着かない様子で、手と手を擦り合わせてみたり、肩を竦めてみたりしながら仰いました。
「ご安心ください。大丈夫ですよ。
まずはゆっくりお客様のお話をお聞きかせください」
風が少し強くなってきたので、窓を閉めてから伺います。
「実は僕の大切な人に贈りたいんです。幼馴染というか、なんというか。
あ、お付き合いとかはしていないんですよ。
恋人とかじゃない。
ただ…とても大切な人なんです。
よく手紙のやり取りをしている大切な人です。
彼女との時間がとても好きなんです。心地よくて。
あんまり会えないんですけどね。
でも一度だけ二人で遠出をしたことがあります。彼女が海に行きたいというので、海までドライブです。
僕は海洋生物について研究する仕事をしておりまして、海なら僕の得専門分野だから話も弾むと気を遣ってくれたのかもしれません。
結局は海の話はそこそこにお互いの日常や他愛もないことをずっとお喋りして楽しかったな。
あ、すみません。
そんなことはお花を注文するのに関係ないですよね」
頭の後ろを掻きながら、恥ずかしそうにお客様は視線を私の足元に落とされました。
「いいえ。その方との思い出はお花を作るのにとても大切なエッセンスです。なんでもお聞かせください」
嬉しそうにお客様はお話を続けてくださいます。
窓はガダガタと震え、もっと話を聞かせてとせがんでいるようです。
「と言っても彼女と出掛けたのはその海くらいかな。
あんまり会って話すことはなかったから、彼女のイメージはその海と手紙です。
二人で出掛けた海は穏やかな春の海でした。
賑やかでキラキラした夏の海じゃない。荒々しくて近寄り難い冬の海でもない。
冬と夏の間にある柔らかくて優しい春の海。
冬と夏の間を優しく取り持つ春の海。
彼女から届く手紙の文字は、まるで海月の子供が揺めきながらゆっくりと僕の心にやって来るようで。
そしてその文字が溶け込む便箋は、僕の指先に柔らかく滑らかな温度を伝えて来る。やっぱり彼女は春の海です。
その海に潜ったり漂ってみたいと思のですが、僕にとっては大き過ぎて深過ぎて尻込みしてしまいます」
お客様の視線はすっかり森の向こうにある遠い海に向いているようです。
しかし、その視線は急に天井を見上げてすぐそこにある暗闇を漂い始めました。
そして、ため息と共にゆっくりと目の前にある蝋燭の灯りに視線は止まります。
「彼女が遠いところへ行ってしまうことになりました。
いつでもあの柔らかい海は目の前にあるとすっかり油断していました。
海は消えることなんてないって。
海が消えてしまうなんて想像ができますか。
無理ですよ。
海はあまりに大きくて、消えてしまったらそこには何が代わりにやってくるのでしょう。
そこに埋めるものを見つける自信はありません。
だから僕は彼女に、あなたが大切だって兎に角伝えたいんです。
それだけです。
ただ、それだけなんです」
再び私を真っ直ぐに見つめて話すお客様の声は、長旅を終えた大きな波が浜辺に辿り着き砂浜に溶けていくようでした。
「次の満月の夜更けには彼女は旅立ってしまうので、その前にお花を取りに来ていいですか?」
お客様はふーっと深く息を吐きながら肩を緩ませました。
「分かりました。その海のような方にお客様のお気持ちが伝わるよう花をお作りいたします」
そう言うとお客様は安心した表情でお帰りになりました。
風はますます強く、辺り一面の水の粒子が渦を巻き、世界を膨らませ始めました。
水の粒子を纏った月を見上げると、黄金の海月が雫を垂らしながら漂っているようです。
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満月が森の向こうから現れ始めました。
相変わらず風は強く、まるで季節を変えるために急いでいるようです。
そんな風に急かされるようにお客様はいらっしゃいました。
「こんばんは。お花を取りに来ました」
少し緊張されているのでしょうか。私にもその波が伝わります。
「こちらになります」
花を差し出すとお客様の緊張は少し和らいだようです。
「ありがとうございます。今から彼女のところへ行ってきます」
昇り始めた満月はあまりに大きく私を驚かせます。
眩しいほどの灯りはお客様の背中を一心に照らしてぐんぐんと押しているようです。
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後日、お客様から手紙が届きました。
「海の花を注文した者です。
その節はお世話になりました。
実はあの満月の夜、彼女のところへ行けませんでした。
だから花も渡せていません。
折角作ってもらったのに、すみません。
やっぱり勇気が出ませんでした。
海は大き過ぎます。深過ぎます。
ちっぽけな自分が一体何ができるんだ?
希望に向かう彼女を僕が止めてしまうんじゃないか?
僕にそんな資格があるのか?
そんな風に思ってしまって。
ダメでしたね。
大切なものほど壊したくなくて、簡単には触れられません。
大切な人を大切にするって一体どうしたらいいんでしょうか。
未熟な僕には答えが出せませんでした。
正解が何なのか、いつか僕にも分かるのでしょうか。
海を見ながら僕はただ立ち止まっています。
でも時間が掛かってもいいので、あなたは僕の大切な人だと伝えられる日が来ればいい。
海がどんなに大きく深くとも、それに怯まないくらいの愛があるんだと。
そしていつか彼女と手を繋いでみたい。
春の海のような柔らかくて優しい手だと思います。
なんだか恥ずかしいですね。
でも手紙だとスラスラ書けてしまうから不思議です。
追伸
室長さんにお会いした時に、なんだか懐かしい気がしました。
あの森も久しぶりと言ってくれたような。
どうしてでしょうか。
またあの森を散策して逢いに行きます」
先程まで輝いていた月は雲にすっかり隠れてしまいました。
ゴーゴーと木々を揺らしながら湿った風が海から森へと手を伸ばします。
そして遠い海で波たちが足を踏み鳴らす音も一緒にやってきて森全体に響いています。
私も一緒に森の大地を足で踏み鳴らしましょう。
土や苔を蹴散らして。
たまにはこんなダンスも必要です。
気が付けば雨も激しく足を踏み鳴らしてダンスを始めていました。
そうして森は手を伸ばし、海からの風と手を取り合い空高く舞い上がるのです。