うたかた意匠室の短編小箱

静かな森の奥深く 月灯りを頼りに迷い込んだ道先 そこにはあなた様に届けたい 心模様がありました

第十一話 太陽

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。


唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。


満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。


さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 

 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

白菫色に輝く満月を眺めていたら、冷たい風が鼠色の薄雲を携えてやってきました。

薄雲からは月灯りに照らされた絹糸のような雨が垂れ下がり、私の頬を撫でてくれます。

冷たくて凍えそうなはずなのに、絹糸は柔らかくうっとりとして眠ってしまいそうです。薄雲の上には絹糸を吐き出している無数の蚕たちが寄り添い、この宇宙を旅しているのでしょう。この蚕たちは人の手から離れ、自由意思で気ままに絹糸を吐きながら旅をしていると考えると心躍ります。


自由な蚕たちに思いを馳せていると、森の奥から絹糸を纏ったお客様がいらっしゃいました。


「こんばんは。美しい月時雨ですね」


嬉しそうに空を見上げるお客様を見て、私も嬉しくなりました。

彼にも歌うように絹糸を吐く蚕が見えているのかもしれません。


「ここはお花を作ってくださる所と聞きました。ここに来るからにはお花の注文をしようと思ったのですが、私にはお花を贈る方が見当たらなくて。

私は世界中をあちらこちらと飛び回っているものですから、大切な人たちは世界中に散らばり、しかもじっとしている人たちではありません。僕もそうなのですが」


よく陽に焼けた顔と腕を見ればお客様の暮らしぶりが伺えます。


「でもどうしてもこちらでお花を作っていただきたく、色々と考えた挙句、思いついたのは未来の自分に花を届けるということでした。そんなお願いはできるのでしょうか」


「はい。もちろんですとも。

明日も未来ですし、十年後も未来です。いつの未来にいたしましょうか」


「それをいつにしようかと今も悩んでいるのですが。

十年後には様々なことがいよいよ変化しているのでしょうか。この地球も。

…そうだな、いろんな願いを込めて十年後に花をお願いします」


今、太陽は私の遥か遠くにあるはずですが、お客様の顔を見ているとこの部屋に優しい陽射しを感じることができそうです。


「私は小さなころから植物が大好きでして、それが高じて今は世界中の森を守る仕事をしています。

父が蘭の研究をしていたので、休日ごとに植物園に連れて行ってもらい、父の話を聞いて植物のことを知ることが一番の楽しみということから始まったのでしょうね。


世界には人間の知らない植物がまだまだたくさんいます。それに人間が植物の生態を理解しているのもほんの一部。わからないことだらけだ。

彼ら彼女らは人間よりも遥か長くこの地球上に住み、姿形を変えながら適応している。素晴らしい生存システムを駆使して生きているので、人間の僕が守るなんて言い方をすることは本当はおこがましいんですが。


僕たちは植物の恩恵を受けて生きています。植物の存在なしに、他の生物の存在なしに生きていくことはできません。みんな地球という星の素晴らしいシステムの一部として生きている。何が欠けてもならないんです。みんなでひとつなんです。


人間以外の生き物たちは無駄な命の奪い合いはしない。この地球を破壊しようなんてことはしない。様々な生き物たちを観察していると、いかに人間が愚かなのかが浮き彫りになり愕然とします。

ただ、人間は愚かなだけではありません。他の生き物に劣らず、他の生き物と同じように素晴らしいものです。

不安定で脆い人間が僕は大好きです。

こんなにも複雑な感情や思考を与えられたからこそ、それを自分で操ることに悩み苦しむ。単純になれない愛すべき生き物だと思います」


太陽は穏やかで優しい光で私を包んでくれました。


「見事な月下美人ですね」


お客様は窓辺にずらりと並ぶの月下美人を見つめて遠い未来を描いていらっしゃるようです。


「私が次に向かうところは、一面の蘭たちが月の光を浴びて幸せにほほ笑む場所です。そのそばで虫たちは歓喜に舞い、動物たちは優雅に愛を囁きます。まさに楽園です。

ただその楽園が今危機に瀕してるのです。だから私はそこへ向かうのです」


きっと遠くにいる蘭たちはお客様のことを今か今かと待ち望んでいるのでしょう。


「そうだ。今夜ここに来たのには花を頼むということ以前に理由があったのです。

僕のお花の注文は後付けだったのに、話が前後してしまいすみません。


実はある方からあなたに手紙を渡してほしいと預かってきました。

その女性とはある国で出会いました。様々な困難に喘ぐその国で、女性は小さな学校を運営して子供たちに教育の機会を与えている方でした。

ただお年も召してお身体があまりよくないようでした。私が今度一時帰国をすると言いましたら、どうしてもこちらに手紙を届けてほしいと懇願されたのでこちらに伺った次第です」


そう言って白い封筒を渡してくださいました。


「僕からのお願いはここまでです。では十年後にまたお会いできることを願っています。どうかお元気で」


「お客様もどうかお元気で。また少し先の未来でお会いしましょう」


絹糸はお客様を待っていたかのように外で相変わらず垂れ下がり、優しくすべてを撫でながらまたゆっくり移動し始めました。


私は10年後にお渡しする花のことを頭に描きました。

10年後という時間は一瞬にして今となり、今という時間は一瞬にして10年後となり、時空を行き来して目の前にその花は現れます。

 

f:id:utakataishoushitsu:20220131104319j:image

 

消えゆく太陽の背中とそれを守るように側を離れない絹糸たち。

与える側と与えられる側はいつでも自由に入れ替わりお互いの愛を感じることができるのでしょう。

その愛を感じられる瞬間に全てがひとつになるのかもしれません。

あまりに美しい光景になぜか祈ることしかできません。


さて、蝋燭の近くに椅子を置き、女性からの手紙を読むことといたしましょう。


封筒から出した手紙はどこかの海の香りがしました。