うたかた意匠室の短編小箱

静かな森の奥深く 月灯りを頼りに迷い込んだ道先 そこにはあなた様に届けたい 心模様がありました

第五話 暗号

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。


唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。


満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、

新月には誰も辿り着くことができません。


さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 

虫の声が少しずつ周囲の空気に吸い込まれ静けさが現れ出した頃、空には覆い被さるように上弦の月も現れます。


窓辺ではもうすぐ終わる柔らかい暖かさを惜しむように、ずらりと並んだ月下美人が一斉に咲き出しました。

窓を開け放ち、むせ返るほどの香りを月にも届けましょう。


この香りに引き寄せられて誰かいらっしゃらないかと窓から外を覗くと、お客様の姿が見えました。お客様がお召しになっているシャツには森の緑と月灯りの青が映り込んでいます。


「こんばんは。若い頃にお世話になった方へ花を贈りたくて伺いました」


月下美人の香りに引き寄せられたお客様は、きっと蛾の生まれ変わりではないかと心踊ります。

オオミズアオのような淡い森の色と、空高く昇った月灯りの色を合わせたような色のシャツを着ていらっしゃったので、オオミズアオの生まれ変わりかと思いました。しかし、オオミズアオは成虫になってから何も食べないので、それではないと少し残念に思ってしまいます。

それに室内に入ったお客様のシャツの色は、蝋燭に照らされた蜜柑色に変わっていました。


「私は幼少期から色々ございまして…。お恥ずかしながら幼い頃から世の中を憎み、自分の境遇を恨み、何よりも自分自身を嫌う日々を送っていました。


もちろん学生時代も誰にも心を開くことなく自分の殻に閉じこもるばかりでして。

何に希望を見出せばいいか分からないある日、私は声が出せなくなりました。

明日なんて来なければいいと思っていたそんな14歳の頃、ある先生に出会いました。


誰にも心を開くことなく過ごしていたのに、その先生は何故か私が石を好きなことを見抜いて時々話しかけて来てくれました。


初めは他の人と同じで声の出ない人間に興味があるだけなのだろうと無視をしていたのですが、魅力的な石のコレクションを毎日私に見せてくれて。そのうちその先生だけには少しずつ心を開くようになっていきました。


ある日、私は先生が一番好きな石は何?とノートに書いて聞いてみました。


先生は魅力的な石たちに順位を付けるのはなんだか気が引けるけれど、小さな声で私にだけ教えるならラピスラズリだと答えてくれました。

ラピスラズリは古代ローマ時代から星のきらめく天空の破片と言われ、エジプトでは天空と冥界を司るオシリス神の石とされていたそうです。

この石を見ていると、いつでも宇宙を眺めている気分になれる。

悲しい時や寂しい時、ラピスラズリを握って私の大切な人がいる宇宙を感じる。そうすればどんな夜でも眠れる。私にとってはお守りのような石よと話されました」


よく見るとお客様のネクタイは黒の水玉模様です。ゴマダラノメイガの生まれ変わりかしらとお話を伺いながら、頭の隅でゴマダラノメイガが羽ばたきます。


「そして、あなたが一番好きな石は何?と聞かれ、私はノートに《モルダバイト》と書きました。


先生はとても楽しそうな顔をして私に教えてくれました。

モルダバイトは厳密には石じゃない。隕石が地球に落ちて来た時の衝撃で形成された天然のガラス。

でもモルダバイトは地球の地面と宇宙にある石がぶつかって誕生する奇跡の暗号のような特別なもの。

その宇宙からの暗号が一番好きだというあなたは、人生を掛けてその暗号を解くべきだと言われました。


それから私は先生に会うために毎日学校へ行き勉強に励み、先生と別れる頃には声が出せるようにもなっていました。


そして先生と別れた後、私はいつの間にか地学の教師を目指すようになり、お陰様で先日、退職を迎えるまで教員を務め続けてこられました」


石が好きな蛾の生まれ変わりのお客様が、宇宙の暗号を解くなんて素晴らしいことです。


「幸せな人生に導いてくださった先生にまた会いたくなり、感謝の気持ちを込めて花をプレゼントしようと伺いました。


窓辺の月下美人が美しいですね。

ここに近づくと素晴らしい香りも漂ってきました。

数年前に旅立った私の妻も月下美人が大好きで毎年美しい花を咲かせていました。

今は娘が全て引き取り育てています。

私は枯らしてしまっては大変だと尻込みして上手く育てられません」


お帰りになるお客様の背中にはたっぷりと鱗粉を蓄えた羽根があり、次の花の蜜を吸うために小さく羽ばたきます。

鱗粉の香りと月下美人の香りが混じり合う美しい夜になりました。

 

 


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今夜も窓辺では月下美人が蛾やコウモリを誘惑するように香りを立ち上がらせながら咲いています。


「こんばんは。花を取りに伺いました」


お客様は茶色い薄手のセーターを羽織っていらっしゃいました。


「ありがとうございます。こちらになります」

 

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花の中に宇宙を見つけるようにしげしげと視線を探索させた後、そっと大事なものを壊さないようにと花を抱えて帰られました。


風は少し冷たくなり始めたようです。月下美人たちも月夜を謳歌してすっかり眠むたそうに俯き始めます。

 

 


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後日、お客様から手紙が届きました。


「先日はありがとうございました。

お陰様で久しぶりに先生に会えて楽しい時間を過ごしました。

先生の目は見えなくなっていましたが、その瞳は長年掛けて形成された鉱石のようでした。

覗き込むとラピスラズリのようなとても美しい瞳。


モルダバイトの暗号は解けた?と聞かれましたが、そればかりはまだ見つけられていないので、これからの人生を暗号解明に注ぎますと伝えました。


でも、あのモルダバイトの優しい緑を見ていると、宇宙から降り注ぐ愛を私は感じます。


どこにいようと降り注ぐ愛はいつでもどんな人でも受け取れる。その人が手を広げさえすれば。

愛を受け取るのも受け取らないのもその人次第で、人はもがき苦しむからこそ、そこにある愛に気づき、その愛にフォーカスできれば幸せになれるのではないでしょうか。


暗号の答えとしてはまだまだ入り口に立っているような気がするので、先生にはそのことは伝えていませんが。


私は幼い頃から人に期待することが怖かった。人に裏切られて傷つくのが何よりも怖かったからです。

でも本当は誰よりも人を信じて愛されたかった。そして誰かを信じて愛したかった。


そんな心からの欲求を押さえ込むことなく、恐れずに生きていくことの素晴らしさを自然に教えてくれたのは先生とモルダバイトなのでしょうね」


あんなにも月夜を謳歌していた蛾たちもいつも間にか姿が見えません。冬支度が忙しくなるころなのでしょうか。

私もそろそろ冬支度。

蚕蛾のような毛布を出して、繭に包まれ夢を見ましょう。人間に茹でられないように祈りながら。