うたかた意匠室の短編小箱

静かな森の奥深く 月灯りを頼りに迷い込んだ道先 そこにはあなた様に届けたい 心模様がありました

第九話 女王

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。

唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。

満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。

 

さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 

 

 

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空には大きく赤い月が昇り、地球の生物を魅了する匂いを漂よわせています。

遠くの海は泡立ち、この森は酔ったように重い身体を横たえました。

私の身体もふわふわと浮遊しそうでありながら、地面に埋まりそうな不思議な感覚です。

気持ちよく身を委ねていると、お客様がいらっしゃいました。


「こんばんは。お花を頼めますか?」


「はい。どのような方にどのようなお花をお作りいたしましょうか」


「私の親友に贈りたいのです。

学生時代にいつも競い合うように研究に励み、お互いの成果を披露しあっていました。

私は蘭の研究を、親友は海洋生物の研究をしていました。二人は専攻も研究対象もまたく違ったのですが、現在の環境破壊に対して何が自分にできるか?そんな思いが同じで、ライバルであり同志のような存在です。


因みに私は卒業後、蘭の研究を仕事にしています。

ここまで蘭に人生を捧げるとは思ってもいなかったのですが、私の蘭好きは子供のころに見た映画が面白くて、そこから始まりました。


その映画というのが子供たちが冒険に出るいわゆるジュブナイル映画で、冒険に出る場所が果てしなく広がる森でして。その森に住む植物たちと子供たちが力を合わせて敵と戦い成長していく物語です。


その森の女王がとても美しい蘭でした。

子供ながらにその蘭に魅了されまして、早速蘭の図鑑を親に買ってもらって夢中になり、映画に登場した蘭が何という名前でどこに生息しどんな生態なのか、どうしても知りたくて調べましたね。もちろん映画の中の蘭は架空の蘭でしたので同じものは見つけることはできませんでした。


でも子供ながらに蘭は人間に一番近い植物かもしれない。これは大発見だぞと思ったのです。

子孫繁栄のために昆虫に合わせて花の姿を変えたり、動物のようにフェロモンを発して昆虫を惹きつけたりと、蘭を知れば知るほどその魅力に嵌って今に至るといったところです。

蘭といえば香りもまたその魅力で、あのバニラアイスで有名なバニラも蘭です。

他にもチョコレートのような甘い香り、シナモンや胡椒のようなスパイシーな香り、そして腐乱死体のような思わず息を止めたくなる香りもあります。


そんな蘭は人間に様々な効力をもたらすとされ、それは魔力のように崇められた挙句、人間の欲望に翻弄され過剰に摘み取られるという時代も経験してきたのです。

そして今では蘭などに見向きもしない、自分たちの私利私欲にしか興味のない人間たちに、蘭の楽園は破壊され続けているのです。


あ、すみません。蘭のこととなると話が止まらなくなるものですから」


私はこの森に潜む蘭のことに思いを馳せておりました。

夜になると蛾やコウモリを引き寄せては艶めかしく輝くあの蘭たちのことを。


「やつは海洋生物の研究をしていて、今も海のそばで様々な生き物の命を守ろうとしています。


私もそんなあいつに負けないように頑張っているのですが、学生を卒業して社会人一年目で早くも学生時代には味わわなかった現実を目の当たりにして、壁にぶち当たってしまいました。

情けないことですが、やはり現実は思うようにいかず悔しい思いばかりでして。

この現状を変えるために勉強してきたのに、何の役にも立てないちっぽけな自分が不甲斐なく。


学生時代にこの地球を救いたいと夢を語り合い、自分たちが世界を変えるんだと意気込んでいた頃の自分と親友が懐かしくなりました。

会いに行くのは恥ずかしいのですが、話のきっかけになってくれる花を持っていこうかと思いこちらに伺いました」

 

お客様のお帰りを見届けて森への散歩に出掛けます。

今夜はいつもより蛾やコウモリがたくさん飛んでいます。

蘭たちの誘惑に素直に従っているのでしょう。

あのお客様もその誘惑には逆らえないはずです。

どこかで足止めを食らうのでしょうね。

 

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半分になってしまった月は、残りの半分を探すように消えてしまった身体の部分を見つめてます。

微かにチョコレートとシナモンの香りが漂う森から、カメラを携えたお客様がいらっしゃいました。


「こんばんは。花を取りに来ました」


「こちらになります」

 

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「楽園ですね」


そう呟いて蘭とカメラと共にお帰りになりました。

前回にいらしたときに余程魅力的なものと出会われたのでしょう。

今夜も囚われの身となるお客様は蛾やコウモリの仲間ですね。

 

 

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後日お客様から手紙が届きました。


「先日はありがとうございました。

相変わらずの親友の笑顔にほっとしました。


親友もちょうど壁にぶち当たり、私がどうしているのだろうと考えていたところだったそうです。

森も大変なことになっていますが、海も深刻な状況でどこから手を付けてよいのか迷子になったと言っていました。

お互いの状況の話をして、お前が壁にぶち当たっているのなら、俺はお前より早く立ち直ってみせると言われまして。ならば私も負けてはいられません。


私たちはまだやっと現実世界に歩き始めたばかりの人間です。

頭で描いていた理想には程遠く、苦しくどうしてよいかわからなくなる時もあります。


そしてお話していた子供のころに観たあの映画のことを思い出しました。

主人公の少年少女たちが森の植物たちと知恵を絞り、勇気を出し、励ましあい、力を合わせてとてつもない敵と戦う。

あれは映画の世界のファンタジーですが、今の現実の世界とそう変わらないと私は思います。

ただ、映画は二時間そこそこで決着が付きますが、現実はそうはいきません。だから焦らず諦めずやっていくことにします。


そんな旅を続けていたら、いつかあの映画に出てきた蘭の女王にもそのうち会えるかもしれませんね。


そうだ、あそこの森にも凄い女王がいそうですよ。何とか出会いたくて魅力的な香りを辿って探しましたが、会うことは叶いませんでした。蛾やコウモリたちはきっと出会っているのだろうな。人間であることが悔しくなる瞬間です」


今夜は森の奥深くまで歩いてみましょうか。

そう言えば、この森の女王に私はまだ挨拶をしていませんでした。

どんな女王なのでしょう。

優しい女王でしょうか。

賢い女王でしょうか。

怖い女王でしょうか。

いずれにせよ、私は女王の前では他の生き物同様、身を委ねるしか無いのです。