ここは森の奥深く。
目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。
唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。
満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、
新月には誰も辿り着くことができません。
さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。
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うっすらと目覚め始めた月の側には、その月の先端に触れたいと訴える瞳を持った金星が輝きます。
今夜はとても優しい風が吹くので目を閉じて森の声を聴きます。
花の寝息や木々の囁きが聴こえる中、遠くで何かが水面を跳ねる音が聴こえます。
秘密の湖が少し騒いでいるのでしょう。
気になりますがクッキーを焼いている途中なので、様子を見るのは後にします。
クッキーが焼き上がった頃、表で声がします。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか」
小さく丸まった背中と杖を携えてお客様がいらっしゃいました。
「こんばんは。どうぞ中へお入りください」
漸く辿り着いたと深く息を吐き椅子にお客様は腰掛けます。
「お久しぶりです。覚えていらっしゃるか分かりませんが、以前こちらで迷子になった息子がお世話になった者です」
馬のような鳥のような魚のようなツノの生えた生き物を見つけたあの男の子です。
「ええ、もちろん覚えています。お久しぶりです」
白く濁った瞳に私がどれほど映っているのかは分かりませんが、私の顔を見上げて懐かしむ笑みをくださいます。
「お花をお願いするのは初めてですが、よろしいですか?」
「もちろんですとも。どのようなお花をお作りしましょうか」
「この森で迷子になったあの日の息子と話がしたくて」
懐かしむ笑みはより一層深くなり瞼は今にも閉じそうです。
「迷子になったあの日から間もなく、私たちは遠いところへ引っ越すことになりました。
息子はどうしてもあの森へまた行きたいと何度も何度も言ったのですが、あまりに遠く私も忙しくて叶えてやれませんでした。
どうしてまたあの森へ行きたいの?と聞いてもなかなか答えてくれなくて。内緒だって言うんです。
この森でとても楽しいことがあったのでしょうね。
あなたともお友達になったと言っていました。あなたにも会いに行きたかったんでしょう。
一度手紙を出すと言って住所を聞かれました。
こちらの住所を探すのには苦労しましたよ。とても変わった住所で驚きました。
息子はこっそりあなたへの手紙を書いてポストへ投函したのだと思います。
無事に届いたかしら」
「ええ、もちろん届きました」
「良かったわ。秘密だの、作戦だの言ってとても楽しそうでしたもの」
お客様は遠い記憶が目の前に現れてすっかりこの空間に身を委ねていらっしゃるようでしたが、窓の外に目を向けるとその笑みは消えてしまいました。
「息子は三十五年前に亡くなりました」
窓の外の光はあまりに頼りなく悲しくなります。
私は先程焼き上がったロシアンクッキーと温かいミルクティーをお客様にお出しすることにしました。
「ありがとうございます。ここに近づくととてもいい匂いがすると思っていました。
私も昔はよく息子にクッキーを焼いたものです。
懐かしいわ」
クッキーとミルクティーをゆっくり味わってお客様は白く濁った瞳を私に向けます。その濁った奥には底なしの群青が私には見えました。
「先日、ある懐かしい方からお花をいただいて、こちらのことをふと思い出しました。
そう言えばあの子の秘密って何だったのかしらと。
秘密だからやっぱり教えてもらえないのかしら。
私の残り少ない時間で知りたいことなんてもう無いと思っていたけれど、気になってしまいましたの」
群青に吸い込まれそうになり私は踏みとどまります。
「秘密をお教えいたしましょう。一週間後にもう一度こちらにお越しくださることはできますか?」
「もちろんですとも。あの子の秘密が分かるなら何度でも足を運びますとも」
外へ出ると月はまだまだ眠そうですが、星たちが不規則に瞬きを繰り返しています。
「お送りいたしましょうか」
「いいえ。ゆっくりとあの夜のことを思い出しながら帰ります。それに、目が見えないほどこの暗い森は歩きやすいのよ」
星たちの瞬きはこっちこっちとお客様を案内してくれるようです。
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一週間が経ち、お客様は小さな歩幅で星たちと一緒にいらっしゃいました。
今夜の月はまだ少し微睡んでいるようです。
「こんばんは。ようこそいらっしゃいました」
「こんばんは。
先日は美味しいクッキーをありがとう。今夜は私がクッキーを焼いてきたのでどうぞ召し上がってくださいな」
ココアとプレーンがきちんと交互に並んだ市松模様のクッキー。まるでチェス盤のような美しさに見惚れます。
「何十年振りに焼いたのでちょっと心配したけれど、上手く焼けてよかったわ。それにとても楽しい時間も過ごせたの」
「ありがとうございます。あとでゆっくりいただきます」
私は花を差し出しました。
「こちらが秘密になります」
お客様は花をそっと掌で触れて鼻を近づけました。
「世の中にはこんなにも美しい秘密があるのね」
瞳の奥にある群青が涙と交じり深い湖に変わります。
お客様はお送りするという私の提案をやはりお断りされお一人で帰られました。
今夜は微睡む月と瞬く金星は最大限に接近するそうです。
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後日、お客様から手紙が届きました。
「先日は素敵な秘密を教えていただきありがとう。息子はやっと秘密を打ち明けてくれたようね。
この秘密を知るのにとても長い時間が掛かったけれど、いつもこの秘密は私の側にあった気がするわ。私にくっ付いて離れなかった。
だから私は今日も明日も明後日も幸せでいられるの。
そしてあの子のいる世界に行ったとしてもそれは変わらない。永遠に変わらないの。
一体どれだけの人が永遠に変わらないものに気づけるのかしら。
私はとても幸運ね。それに気づいて生きているのだから」
今夜はクッキーと温かいミルクティーを携えて秘密の湖まで散歩です。
木々をかき分け苔でふかふかになった地面を踏みしめます。
ふと道先に動くものが見えます。
私は息を殺してそっと近づくと、月灯りに輝く立髪とパールのように輝く鱗が見えます。
立髪の隙間から見える群青の瞳と私の瞳が合った瞬間に、その生き物は湖の方へ飛び立ちました。
私は慌てて木々をかき分け追いかけましたがすぐに見失います。
何かが湖に入る音がしたと思った数秒後、月灯りに照らされたあの生き物が宇宙へ昇って行きます。
そう言えばあの男の子はあの生き物に会えたのでしょうか。どこかにある美しい世界で一緒に過ごしているのかもしれません。
私もいつかあのように宇宙へ昇って行けるのでしょうか。
海の底にある海の始まりのようなあの宇宙に。