うたかた意匠室の短編小箱

静かな森の奥深く 月灯りを頼りに迷い込んだ道先 そこにはあなた様に届けたい 心模様がありました

第四話 秘密

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。


唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。


満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、

新月には誰も辿り着くことができません。


さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 


うっすらと目覚め始めた月の側には、その月の先端に触れたいと訴える瞳を持った金星が輝きます。


今夜はとても優しい風が吹くので目を閉じて森の声を聴きます。

花の寝息や木々の囁きが聴こえる中、遠くで何かが水面を跳ねる音が聴こえます。

秘密の湖が少し騒いでいるのでしょう。

気になりますがクッキーを焼いている途中なので、様子を見るのは後にします。


クッキーが焼き上がった頃、表で声がします。


「すみません。どなたかいらっしゃいますか」


小さく丸まった背中と杖を携えてお客様がいらっしゃいました。


「こんばんは。どうぞ中へお入りください」


漸く辿り着いたと深く息を吐き椅子にお客様は腰掛けます。


「お久しぶりです。覚えていらっしゃるか分かりませんが、以前こちらで迷子になった息子がお世話になった者です」


馬のような鳥のような魚のようなツノの生えた生き物を見つけたあの男の子です。


「ええ、もちろん覚えています。お久しぶりです」


白く濁った瞳に私がどれほど映っているのかは分かりませんが、私の顔を見上げて懐かしむ笑みをくださいます。


「お花をお願いするのは初めてですが、よろしいですか?」


「もちろんですとも。どのようなお花をお作りしましょうか」


「この森で迷子になったあの日の息子と話がしたくて」


懐かしむ笑みはより一層深くなり瞼は今にも閉じそうです。


「迷子になったあの日から間もなく、私たちは遠いところへ引っ越すことになりました。

息子はどうしてもあの森へまた行きたいと何度も何度も言ったのですが、あまりに遠く私も忙しくて叶えてやれませんでした。

どうしてまたあの森へ行きたいの?と聞いてもなかなか答えてくれなくて。内緒だって言うんです。

この森でとても楽しいことがあったのでしょうね。

あなたともお友達になったと言っていました。あなたにも会いに行きたかったんでしょう。


一度手紙を出すと言って住所を聞かれました。

こちらの住所を探すのには苦労しましたよ。とても変わった住所で驚きました。

息子はこっそりあなたへの手紙を書いてポストへ投函したのだと思います。

無事に届いたかしら」


「ええ、もちろん届きました」


「良かったわ。秘密だの、作戦だの言ってとても楽しそうでしたもの」


お客様は遠い記憶が目の前に現れてすっかりこの空間に身を委ねていらっしゃるようでしたが、窓の外に目を向けるとその笑みは消えてしまいました。


「息子は三十五年前に亡くなりました」


窓の外の光はあまりに頼りなく悲しくなります。


私は先程焼き上がったロシアンクッキーと温かいミルクティーをお客様にお出しすることにしました。


「ありがとうございます。ここに近づくととてもいい匂いがすると思っていました。

私も昔はよく息子にクッキーを焼いたものです。

懐かしいわ」


クッキーとミルクティーをゆっくり味わってお客様は白く濁った瞳を私に向けます。その濁った奥には底なしの群青が私には見えました。


「先日、ある懐かしい方からお花をいただいて、こちらのことをふと思い出しました。

そう言えばあの子の秘密って何だったのかしらと。

秘密だからやっぱり教えてもらえないのかしら。

私の残り少ない時間で知りたいことなんてもう無いと思っていたけれど、気になってしまいましたの」


群青に吸い込まれそうになり私は踏みとどまります。


「秘密をお教えいたしましょう。一週間後にもう一度こちらにお越しくださることはできますか?」


「もちろんですとも。あの子の秘密が分かるなら何度でも足を運びますとも」


外へ出ると月はまだまだ眠そうですが、星たちが不規則に瞬きを繰り返しています。


「お送りいたしましょうか」


「いいえ。ゆっくりとあの夜のことを思い出しながら帰ります。それに、目が見えないほどこの暗い森は歩きやすいのよ」


星たちの瞬きはこっちこっちとお客様を案内してくれるようです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

一週間が経ち、お客様は小さな歩幅で星たちと一緒にいらっしゃいました。

今夜の月はまだ少し微睡んでいるようです。


「こんばんは。ようこそいらっしゃいました」


「こんばんは。

先日は美味しいクッキーをありがとう。今夜は私がクッキーを焼いてきたのでどうぞ召し上がってくださいな」


ココアとプレーンがきちんと交互に並んだ市松模様のクッキー。まるでチェス盤のような美しさに見惚れます。


「何十年振りに焼いたのでちょっと心配したけれど、上手く焼けてよかったわ。それにとても楽しい時間も過ごせたの」


「ありがとうございます。あとでゆっくりいただきます」


私は花を差し出しました。


「こちらが秘密になります」

 

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お客様は花をそっと掌で触れて鼻を近づけました。


「世の中にはこんなにも美しい秘密があるのね」


瞳の奥にある群青が涙と交じり深い湖に変わります。


お客様はお送りするという私の提案をやはりお断りされお一人で帰られました。


今夜は微睡む月と瞬く金星は最大限に接近するそうです。

 

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後日、お客様から手紙が届きました。


「先日は素敵な秘密を教えていただきありがとう。息子はやっと秘密を打ち明けてくれたようね。

この秘密を知るのにとても長い時間が掛かったけれど、いつもこの秘密は私の側にあった気がするわ。私にくっ付いて離れなかった。


だから私は今日も明日も明後日も幸せでいられるの。


そしてあの子のいる世界に行ったとしてもそれは変わらない。永遠に変わらないの。


一体どれだけの人が永遠に変わらないものに気づけるのかしら。

私はとても幸運ね。それに気づいて生きているのだから」


今夜はクッキーと温かいミルクティーを携えて秘密の湖まで散歩です。


木々をかき分け苔でふかふかになった地面を踏みしめます。


ふと道先に動くものが見えます。

私は息を殺してそっと近づくと、月灯りに輝く立髪とパールのように輝く鱗が見えます。

立髪の隙間から見える群青の瞳と私の瞳が合った瞬間に、その生き物は湖の方へ飛び立ちました。


私は慌てて木々をかき分け追いかけましたがすぐに見失います。

何かが湖に入る音がしたと思った数秒後、月灯りに照らされたあの生き物が宇宙へ昇って行きます。


そう言えばあの男の子はあの生き物に会えたのでしょうか。どこかにある美しい世界で一緒に過ごしているのかもしれません。

私もいつかあのように宇宙へ昇って行けるのでしょうか。

海の底にある海の始まりのようなあの宇宙に。

第三話 金星

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。


唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。


満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。


さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 

 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 


新月後の漆黒の空は、鋭利な刃物ですーっと半円に切れ目を入れられ、そこから眩しい光が細く漏れ出しています。

側には針で突いたような小さな穴から、同じく眩しい光が寄り添います。


あまりに美しい宇宙をもっと見たくて、私は付近を散策することにしました。


数え切れないほどの虫の声は幾重にも重なり、私を優しく包むシールドのようです。

シールドに包まれながらふわふわと歩いていると虫の声ではない声がやって来ました。


子供の静かな泣き声です。

この森に似つかわない声の元へと急ぎました。


鬱蒼とした深緑が突然開けた小さな空間に、小さな男の子が泣きながら佇んでいます。


「大丈夫ですか?」


そっと声を掛けます。


突然声を掛けられてギョッとした表情を向けながら男の子はますます声を上げて泣きます。


困りました。

兎に角、私は怪しい者ではありませんと示すために、その場に座り男の子が泣き止むまで静かに待つことにしました。


暫くすると、それが功を奏したのか、ただ泣き疲れて諦めたのか、男の子は私の前に座り込みました。


「大丈夫ですか?」


大丈夫ではないことは分かりますが、とりあえず声を再び掛けます。


私の問いには答えず、男の子はじっと私を見つめた後、


「あなたは誰?」

と言いました。


「私はうたかた意匠室の室長です」


「シツチョー?」


「はい。室長です」


「シツチョーさん、お腹が減ったの」


私はとりあえず男の子と一緒に戻ることにしました。


室内に入ると昨日焼いた歪なロシアンクッキーとミルクを男の子に出しました。

男の子は余程お腹が空いていたのか無言でクッキーを口に頬張りミルクで流し込みます。

すっかり完食したところで私は聞きます。


「なぜ森で一人なの?」


その問いに現実を思い出したのかまた泣きそうになりましたが、しっかり答えようとします。


「あのね、お母さんと森を散歩していたんだけど、離れちゃったの。

あのね、僕見つけたの。

馬みたいな鳥みたいな魚みたいなすごいやつ。

ツノまであったんだ。

そいつを追いかけていたの。

そしたらいつの間にかお母さんが居なくて、そいつも居なくなったの」


「馬みたいな鳥みたいな魚みたいな?」


「そう!

追いかけたらそいつめちゃくちゃ早く飛んで行っちゃった。向こうの方でジャブジャブ水の音もしたんだ。

だから水を探したんだけどなくって。

お母さんもなくって」


「きっとお母さんはあなたのことを探していますね。一緒に待ちましょう。きっとお母さんは迎えに来てくれます。この辺に家はうちしかありませんから」


クッキーとミルクをもう少し食べますか?と聞いたら頷いたのでさらにテーブルに出しました。


「あいつは絶対海に住んでいるんだ。水の音もしたし、キラキラ緑に光る鱗が見えたし。きっと草を食べに森まで来ていたんだよ。海に住んでるなら海のものを食べればいいのに。どうして森に来るんだろう。僕の持っている海の図鑑にはあんなやつは載っていないよ」


そう言って口いっぱいにクッキーを詰め込み、一生懸命咀嚼をしながら難しい顔をしてあの生物の謎を解こうとしているようです。

そしてまたミルクでクッキーを一気に流し込み、今度は私の謎に興味が湧いたようで、


「シツチョーさんはここで何してるの?

一人なの?」


口元にミルクの白い髭をつけながら男の子は聞きます。


「はい。一人です。ここでお客様からお話を聞いてそれにぴったりのお花のプレゼントを作っています」


「へー、そうなんだ」


「あなたは誰かにお花をプレゼントしたいと思いますか?」


「そりゃ、僕のお母さんにプレゼントしたいよ!

僕のお母さんはすごいんだ。僕のお母さんはいつも頑張っている。優しいし、クッキーを作るのも上手。シツチョーさんのよりもっと美味しいんだよ!

そうだ。僕のお母さんにお花を作って!

内緒でプレゼントして驚かすの。

いい?」


「もちろんです。お母さんにどんな気持ちを伝えたいですか?」


「大好きだってことだよ。

お母さんは忙しいし、なかなか話を聞いてもらえない時もあるけど、僕と一緒にいる時は図鑑に載っている魚のことを一緒に調べてくれたり、歌を歌ってくれたり、一緒に虫を捕まえてくれたり、シャンプーの泡をいーっぱい作って頭に乗せてくれるんだ。

そんなことしてくれるの世界で一人だけだよ」


「分かりました。あなたの気持ちが伝わるようなお花をお作りします」


お母さんにお花をプレゼントしているところを思い描いているのか、すっかりご機嫌になった男の子は椅子からぶら下がった足を全力で前後に動かし身体を上下に動かし今にも踊り出しそうです。


その時、外で声がしました。


「こんばんは。どなたかいらっしゃいますか?」


その声を聞くや否や男の子は椅子から飛び降り走ります。


「お母さーん!」


私は胸を撫で下ろします。


二人を見送ろうと外へ出ると、男の子の母親が深々と私に頭を下げて申し訳ないということと感謝を述べる間、側に居る男の子は私を大きな目で見据えて口をパクパクさせています。


目を凝らしてミルクの白髭を生やした唇を読むと


「お は な」


と言っているようです。

お母さんには秘密だからね、ということですね。


空には相変わらず二つの光がしっかり寄り添います。


それにしても、男の子が見たという馬のような鳥のような魚みたいな生き物。

私にもいつか出会えるのでしょうか。

 

 

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一週間後、花は出来上がりました。


けれども男の子はやって来ません。

やはりお母さんに内緒で花を取りに来ることは難しいのでしょう。

秘密の花は秘密のままそっと仕舞い込むことにしました。

 

 

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空の端がインディゴになり始めた頃、私は諦めて外へ出ます。

男の子が見たという馬のような鳥のような魚のようなツノが生えた生き物を探しに行くとしましょう。

私しか知らない秘密の小さなあの湖に行けば出会えるかもしれません。

 

 

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後日、男の子から手紙が届きました。

封筒には赤い花が描かれた切手と黄金虫が描かれた切手が貼ってあります。


「シツチョーさんへ。


おはなをとりにいけなくてごめんなさい。

おかあさんにないしょでいけなかった。


だからかわりにおはなのえをかいてプレゼントしました。

ピンクやオレンジやキイロやいろんないろのはなをかきました。


おかあさんはとてもよろこんでくれました。


いつかおおきくなったら、シツチョーさんのおはなをおかあさんにプレゼントしたいです。


それまでシツチョーさんはげんきでいてください」


今夜も虫の声が一層賑やかです。

短い命を余すことなく抱きしめて開放するかのように。

この地球で生きていることがどれほどの幸せであるかを自由に表現するように。


さて、馬のような鳥のような魚のようなツノの生えた生き物を探しに行くととします。

その生き物に出会えたら、まず男の子の話をしましょう。

お母さんが大好きな幸せな男の子の話を。

第二話 海

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。

唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。

満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。

 

さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 


今夜は幽玄な朧月に目を奪われています。

周囲は水の粒子に満ち、風が吹くたびに土や木々は深く息を吸いその水の粒子を染み込ませます。

 


そんな風と共にお客様は少し息を切らせていらっしゃいました。

 


「こんばんは。お花を注文したいのですが。

えっと、花をプレゼントするのが初めてで、なんというか、よろしくお願いします」

 


お客様は少し落ち着かない様子で、手と手を擦り合わせてみたり、肩を竦めてみたりしながら仰いました。

 


「ご安心ください。大丈夫ですよ。

まずはゆっくりお客様のお話をお聞きかせください」

 


風が少し強くなってきたので、窓を閉めてから伺います。

 


「実は僕の大切な人に贈りたいんです。幼馴染というか、なんというか。

あ、お付き合いとかはしていないんですよ。

恋人とかじゃない。

ただ…とても大切な人なんです。

よく手紙のやり取りをしている大切な人です。

彼女との時間がとても好きなんです。心地よくて。

あんまり会えないんですけどね。

でも一度だけ二人で遠出をしたことがあります。彼女が海に行きたいというので、海までドライブです。

僕は海洋生物について研究する仕事をしておりまして、海なら僕の得専門分野だから話も弾むと気を遣ってくれたのかもしれません。

結局は海の話はそこそこにお互いの日常や他愛もないことをずっとお喋りして楽しかったな。

あ、すみません。

そんなことはお花を注文するのに関係ないですよね」

 


頭の後ろを掻きながら、恥ずかしそうにお客様は視線を私の足元に落とされました。

 


「いいえ。その方との思い出はお花を作るのにとても大切なエッセンスです。なんでもお聞かせください」

 


嬉しそうにお客様はお話を続けてくださいます。

窓はガダガタと震え、もっと話を聞かせてとせがんでいるようです。

 


「と言っても彼女と出掛けたのはその海くらいかな。

あんまり会って話すことはなかったから、彼女のイメージはその海と手紙です。

二人で出掛けた海は穏やかな春の海でした。

賑やかでキラキラした夏の海じゃない。荒々しくて近寄り難い冬の海でもない。

冬と夏の間にある柔らかくて優しい春の海。

冬と夏の間を優しく取り持つ春の海。

彼女から届く手紙の文字は、まるで海月の子供が揺めきながらゆっくりと僕の心にやって来るようで。

そしてその文字が溶け込む便箋は、僕の指先に柔らかく滑らかな温度を伝えて来る。やっぱり彼女は春の海です。

その海に潜ったり漂ってみたいと思のですが、僕にとっては大き過ぎて深過ぎて尻込みしてしまいます」

 


お客様の視線はすっかり森の向こうにある遠い海に向いているようです。

しかし、その視線は急に天井を見上げてすぐそこにある暗闇を漂い始めました。

そして、ため息と共にゆっくりと目の前にある蝋燭の灯りに視線は止まります。

 


「彼女が遠いところへ行ってしまうことになりました。

いつでもあの柔らかい海は目の前にあるとすっかり油断していました。

海は消えることなんてないって。

 


海が消えてしまうなんて想像ができますか。

無理ですよ。

海はあまりに大きくて、消えてしまったらそこには何が代わりにやってくるのでしょう。

そこに埋めるものを見つける自信はありません。

 


だから僕は彼女に、あなたが大切だって兎に角伝えたいんです。

それだけです。

ただ、それだけなんです」

 


再び私を真っ直ぐに見つめて話すお客様の声は、長旅を終えた大きな波が浜辺に辿り着き砂浜に溶けていくようでした。

 


「次の満月の夜更けには彼女は旅立ってしまうので、その前にお花を取りに来ていいですか?」

 


お客様はふーっと深く息を吐きながら肩を緩ませました。

 


「分かりました。その海のような方にお客様のお気持ちが伝わるよう花をお作りいたします」

 


そう言うとお客様は安心した表情でお帰りになりました。

 


風はますます強く、辺り一面の水の粒子が渦を巻き、世界を膨らませ始めました。

水の粒子を纏った月を見上げると、黄金の海月が雫を垂らしながら漂っているようです。

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 


満月が森の向こうから現れ始めました。

相変わらず風は強く、まるで季節を変えるために急いでいるようです。

 


そんな風に急かされるようにお客様はいらっしゃいました。

 


「こんばんは。お花を取りに来ました」

 


少し緊張されているのでしょうか。私にもその波が伝わります。

 


「こちらになります」

 

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花を差し出すとお客様の緊張は少し和らいだようです。

 


「ありがとうございます。今から彼女のところへ行ってきます」

 


昇り始めた満月はあまりに大きく私を驚かせます。

眩しいほどの灯りはお客様の背中を一心に照らしてぐんぐんと押しているようです。

 

 

 


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後日、お客様から手紙が届きました。

 


「海の花を注文した者です。

その節はお世話になりました。

 


実はあの満月の夜、彼女のところへ行けませんでした。

だから花も渡せていません。

折角作ってもらったのに、すみません。

 


やっぱり勇気が出ませんでした。

海は大き過ぎます。深過ぎます。

ちっぽけな自分が一体何ができるんだ?

希望に向かう彼女を僕が止めてしまうんじゃないか?

僕にそんな資格があるのか?

そんな風に思ってしまって。

ダメでしたね。

大切なものほど壊したくなくて、簡単には触れられません。

 


大切な人を大切にするって一体どうしたらいいんでしょうか。

未熟な僕には答えが出せませんでした。

正解が何なのか、いつか僕にも分かるのでしょうか。

海を見ながら僕はただ立ち止まっています。

 


でも時間が掛かってもいいので、あなたは僕の大切な人だと伝えられる日が来ればいい。

海がどんなに大きく深くとも、それに怯まないくらいの愛があるんだと。

そしていつか彼女と手を繋いでみたい。

春の海のような柔らかくて優しい手だと思います。

なんだか恥ずかしいですね。

でも手紙だとスラスラ書けてしまうから不思議です。

 


追伸

 


室長さんにお会いした時に、なんだか懐かしい気がしました。

あの森も久しぶりと言ってくれたような。

どうしてでしょうか。

またあの森を散策して逢いに行きます」

 


先程まで輝いていた月は雲にすっかり隠れてしまいました。

ゴーゴーと木々を揺らしながら湿った風が海から森へと手を伸ばします。

そして遠い海で波たちが足を踏み鳴らす音も一緒にやってきて森全体に響いています。

私も一緒に森の大地を足で踏み鳴らしましょう。

土や苔を蹴散らして。

たまにはこんなダンスも必要です。

気が付けば雨も激しく足を踏み鳴らしてダンスを始めていました。

そうして森は手を伸ばし、海からの風と手を取り合い空高く舞い上がるのです。

 

 

 

 

 

 

 

第一話 手紙

ここは森の奥深く。

目印もなく迷った暁に辿り着く「うたかた意匠室」。

 

唯一、頼れるのはあなたを見つめる月の灯りだけ。

 

満月には必ずお客様がいらっしゃいますが、新月には誰も辿り着くことができません。

 

さて今夜はお客様がいらっしゃるのでしょうか。

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

今夜は寝待ち月。

なかなか現れない月にお客様はハラハラなさっているのでは、と私も落ち着かない気持ちになります。

寝て待つなど到底できそうにもございません。

 

落ち着かない私を宥めるように月が微笑みだした頃、お客様は落ち着いた様子でゆったりとおいでになりました。

 

「こんばんは。よくいらっしゃいました」

 

蝋燭の灯に照らされたお客様の表情は穏やかですが、微かな笑みの中に少し悲しみや戸惑いも浮かび上がっているようです。

その微かな振動は私に伝わり、思わず窓から月を見つめ返しました。

 

「お花をある方に届けたくて」

 

柔らかく湿度を帯びた声はそっと私の耳を包みます。

 

「どうぞお掛けください。あなたとそのお方とのお話を聞かせていただきます」

 

私の目を見つめていた視線は、ご自分の膝の上にそっと置かれた手の甲へと落ちました。

 

「あの…。実は時間を遡りたいのですが」

 

「時間ですか。どのような時間を遡りましょうか」

 

「彼と私が出会って離れ離れになるまでの十五年間です」

 

お客様の身体は夜の深みに溶け出し、声は漂いながら私の耳に届きます。

 

「十五年間ですね。その時間はどのような時間だったのでしょうか」

 

「私たちは幼馴染でしたが、いつも一緒にいた訳ではありません。お互いのことは意識していましたが思春期特有の自意識からかなかなか話せず。

でもある日、彼から手紙が届いたんです。ただ日常を綴った他愛もない内容でしたが、手紙だと何でも伝えられる気がしました。それから手紙のやり取りが始まりました。近くに住んでいるのにおかしいですよね。

一度だけ二人で出かけたことはありましたが、十五年という時間を考えると実際に話をした時間はほんの僅かです。

 

でもいつもお互いの心の中には、お互いの存在がありました。

手紙の中の二人はとても饒舌でした。

私たちは恋人でもなく、友達でもなく、ただの幼馴染でもなく、もちろん家族でもない。二人の関係を表す言葉は今も見つかりませんが、他にはない特別な存在でした。

 

どこか目には見えないピンと張り詰めた糸のような、払っても払っても消すことのできない霧のような。

何か私たちの間にはそのようなものがあったように思います。

それが何だったのか今も分からないのです」

 

白く浮き上がる自分の手の甲に視線を落としながら、小さな沈黙を作り出されました。

 

「…出会ってから十五年後、私は生まれ育った環境を手放し、遠く離れた場所へと旅立つことにしました。

彼にももちろんそのことは伝えました。

遠くへ行こうと手紙は出せる、だから二人の関係は変わらないと彼は思っていたのだと思います。

ですが、私の心は今までの二人の関係を壊したくなりました。粉々に。

だから二人の間を繋ぐ手紙という手段を放り投げてしまいました。

なぜ私はそのような衝動に駆られたのでしょうか。もう思い出せないんです」

 

手のひらはいつの間にか膝の上で天を仰ぎ、視線は手の中にあった何かを思い出すように深く深く落ちて行きます。

 

「私たちの関係を手放してからニ年が経ったある日、彼が亡くなったことを耳にしました。

私に流れる全身の血液が泡立つような感覚に襲われました。

もしかしたら私が粉々にして放り投げたものは、いつかまた掻き集めて形作れると思っていたのかもしれません。

でももう、掻き集めることも形作ることもできません。消滅してしまいました」

 

手のひらと視線はいつの間にかバラバラになり彷徨っているようでした。

 

「私たちの関係が消滅してから十五年が経ちました。出会ってから十五年、消滅してから十五年。同じだけの時間が経ったのだとふと思い、ここへ来たのです。

今更ですが、私たちの間にあった何か分からないもの、私が放り投げてしまった理由、そんな今となっては思い出せないものを思い出したい。

そして、彼に最後の手紙を渡したい。花の手紙です。

こんな注文、受けていただけますか?」

 

膝の上の手はお互いを握りしめ、視線は真っ直ぐ私の方に戻っていました。

 

「もちろんです。お二人のためにお作りいたします。花の手紙を」

 

お客様をお見送りする頃、寝待ち月は森に沈み掛けていました。

私の出番は終わりです。あとはあなたにお任せしますと言わんばかりに。

新月に向かうので制作を少し急ぐことと致しましょう。

やはり寝待ち月は私の心を少し乱します。

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

微かな水滴が浮かび上がり、夜も終わりを告げそうな頃、空には朝に向かう月が微かに輝きます。

 

「こんばんは。お花を取りに伺いました」

 

お客様はやはり慌てる様子もなくゆったりといらっしゃいました。

 

「こちらになります」

 

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お客様は黙ってそれを見つめます。

蝋燭の灯りに照らされた表情は、安堵したような、懐かしむような柔らかさを纏っています。

 

「ありがとうございます。久しぶりに彼とお喋りができそうです」

 

「どうぞお二人の時間をお楽しみください」

 

お客様はそっと花を抱えて、白み始めた森に吸い込まれるようにお帰りになられました。

 

辺りは動き始めた土と水滴が混じり合った柔らかい匂いに包まれています。

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

後日、お客様から手紙が届きました。

 

「先日はお花をありがとうございました。

あの後、一週間ほど花を眺めながら毎日彼とお喋りができました。

あまりに久しぶりで初めは戸惑いました。

照れ臭くもありました。

でもね、お喋りをしていくうちに気づいたことがあるんです。

当時の私には気づけなかったことを。

 

私、本当はもっと彼と会いたかった。

視線を合わせたかった。

もっと声も聞きたかった。

手に触れてみたかった。

心の奥底を見せたかった。

きっと。

 

でもあの頃は、本当の自分の欲求に従うのが怖かった。

本当の自分を見せるのが怖かった。

嫌われてしまうのが怖かった。

自分に自信がなかった。

 

だから深いところで繋がれなくても平気な振りをしていました。

でもその時は気付かなかった。

平気だと思っていました。

やっと分かりました。

彼がどれほど大切だったのか。

三十年経ってやっと分かりました。

 

あなたが大切だと言えない自分に苛立っていたのでしょう。

素直になれない自分。

本当の心の声に耳を澄ますことが出来ない自分。

物分かりのいい人という仮面を被って生きていたのでしょう。

そんな自分が嫌で何もかも放り投げた。

 

そして彼が亡くなり、私は彼との記憶を無理やり小箱に仕舞い込み鍵を掛けたのです。

私の爆発しそうな心を受け止める勇気がなかった。

 

でも長い時間を経て小箱の鍵が開きました。

どうしてかしら。

彼がもうそろそろ開けてもいいじゃないかと言ってくれたのでしょうか。

 

そして、遠いところに居る彼は今になって私に教えてくれました。

ありのままの心に従うことの大切さを。

 

あまりにも長い時間、私は私に嘘をつき続ける生き方をしているのでしょう。

今からでも私は自分に嘘をつくことなく生きていけるのでしょうか。

自信はありません。染み付いてしまって。

 

でも折角彼が教えてくれましたので、少しずつ自分を変えてみようと思います。

 

とても遅くなりましたが、彼にありがとうの手紙を書いてみようと思っています。

 

私たちはいつも背中合わせ。すぐ側にいたんですね。一番近くに」

 

窓からは柔らかく温かい風に乗って微かな雨の匂いが入ってきました。

その匂いは森の遥か向こう側にある温かい海を思い出させます。

 

今夜は何かを掴んでいないとこの手は雨に流されて暗闇に溶けてしまいそうです。心許ない左手には傘を携えて、寂しげな右手は優しい風と手を繋いで森を当てもなく歩きましょう。

 

木々の芽が膨らんでいく声と、森の遥か向こう側にある海の声に耳を澄ませながら。